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橘瞬華さん

徒然なるままに。

性別 女性
将来の夢 そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ。
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窓枠の内にあった幸せ

18/02/25 コンテスト(テーマ):第153回 時空モノガタリ文学賞 【 報酬 】 コメント:0件 橘瞬華 閲覧数:339

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其処は、まるで仄暗い闇が蹲っているようだった。丸太で組まれた素朴な山小屋、白んだ木製の軋む床。やがて日が姿を現し、白く薄いカーテンが微かに揺れ、舞い上がる埃と無数のキャンバスを照らし出した。その中で壁に掛かる一枚の画用紙に描かれた絵だけは毛色が違った。幼い筆致。歪なパース。背の高い無精髭を生やした男と少女が笑っている。
これは、一夏の間少女を匿った、画家の男への報酬である。

その日は真夏日であった。周囲を木々に覆い隠された小屋は蝉の声が煩い。が、日が昇る頃に就寝し、日が沈む頃に活動を開始する男は何を感じることもなかった。
そこに異質な客が現れるまでは。
「ごめんください」
控え目なノックの音が谺するが、男が目を覚ます様子はない。か細い声、窓の外に揺れる影から少女のものと察せられる。誰か居ませんか、と扉に手を掛け小屋へと足を踏み入れ、少女は体を飛び上がらせた。誰もいないと思っていた小屋に男が転がっていたためだ。少女は男に駆け寄り、体を揺らした。
「あの、もし、あの、生きてらっしゃいます…?」
目を覚ました男は後ずさった。隔離された小屋に見知らぬ人間が居たためである。
少女曰く、家出を試み足を負傷し、途方に暮れた矢先にこの小屋を見付けたと。一方男は少女が輝いて見えたため幻覚だろうと考えた。幻覚であるなら好きにすればいいと。
かくして、男と少女の共同生活は始まった。

男は少女が掃除した輝く床を見て、ようやく少女の実在を認識した。しかし何日経とうと、少女を探しに来る者は誰も居なかった。
それまでの男の生活は夕方に起き、夜に絵を描き、朝になると寝た。週に一度来るトラックの男に絵を渡し、画材と一週間分の食糧を得た。少女が来てからは朝起き、昼に絵を描き、夜には少女を抱いて寝た。少女は夜になると酷く咳き込んだ。小屋に布団はなく、寒暖の差が激しかった。トラックが来る時には少女をロフトへとやったが、トラックの男は気付いても寡黙を貫いた。

ある日の夕暮れ、男は奇声を上げながらキャンバスを裂き、イーゼルを床に薙ぎ倒し、拳を叩きつけた。少女はしがみつき、やめてください、と制止した。腕を振ると、少女の体躯は驚くほど軽く跳ねた。少女は咳き込みながら、愕然とする男の体を抱き、言い聞かせるように言った。
「貴方の絵は、素敵です」
男は抵抗することなく、僅かに嗚咽を漏らした。細い体にしがみつき、そうして得られる安らぎを享受した。少女は男の髪を撫で、背中を擦った。
「見てください、綺麗な夕焼け」
窓枠を橙色が侵食し、眩いばかりの光源が内と外の輪郭を際立たせた。見上げれば優しい黒い影があった。男の人生の中で最も美しい一時が流れていった。

翌日、男は少女が絵を描く様子をキャンバス越しに見ていた。時折咳き込みながら、年相応の子供のように床に寝そべり手を動かしている。やがて完成した絵をお礼です、と言って男に手渡した。
「幸せな時間だから、笑顔にしました。きっと笑顔も素敵です」
拙い絵だ。かろうじて二人を描いたものだと分かる程度の。それに男は笑ったことがない。これはただの妄想に過ぎない。だが男はそれを破り捨てず、キャンバスの真正面の壁、柱時計の掛かる位置に貼り付けた。男の絵にはいつしか光が、少女が描かれ始めた。
夏の終わりが近付くにつれ少女の咳は止まらなくなり、咽が擦りきれ吐血するようになった。男は狼狽えた。トラックが来るまであと数日ある。電話はこの小屋に存在しなかった。
最期の日、咳で途切れつつ彼女は言った。
「貴方の絵が好きです。独りでいた頃からずっと…。帰りたくない、ここで眠りたいんです」
男は少女の手を握りしめた。少女の手が温もりをなくすまで、そうしていた。男は小屋の傍に少女を埋めた。埋めてから、もうすがるものはないのだと慟哭した。
それからの数日、男は寝ずに少女を描き続けた。華奢な手足、上気した赤い頬。控え目な微笑みと柔らかな眼差し。記憶が零れ落ちる前に、少女の姿を焼き付けるように。やがてトラックが来た。埃の積もり始めた床と壁に掛かった絵、キャンバスを見て男は言った。
「裏の別荘で行方不明者が出たようで」
「ここにはもう居ない」
「絵を見られれば何か言われるかも」
「俺は、美しいものを描くだけだ」
それ以上、トラックの男は何も言うことはなかった。役目を果たし、来た道を引き返していった。
後年、彼の絵は評価されるようになる。初期の彼の作品は窓枠越しに夜の静謐を描いた風景画が多くを占めていたが、後期の作品には光が宿り始め、視点が部屋の内へと向かい、一人の少女が描かれ続ける。モデルとなった少女は一体誰なのかと、誰もが憶測を広げる。
少女の孤独を癒した画家への報酬もまた、男の孤独を癒すことだった。眠りから覚めた男は再び描き始める。幸せの象徴である絵を見つめながら。


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