1. トップページ
  2. 月の住人

広田杜さん

マイペースに書いています。 Twitter @hirota_mori

性別 女性
将来の夢 いつか自分の書いたものが本になったら嬉しいです。
座右の銘 一日一善

投稿済みの作品

2

月の住人

18/02/22 コンテスト(テーマ):第153回 時空モノガタリ文学賞 【 報酬 】 コメント:0件 広田杜 閲覧数:320

この作品を評価する

「じゃあここでいいか」
 彼女はこともなげにそう言うと、僕を壁に押し付けキスをした。彼女の一連の造作には迷いも恥じらいもなくて、僕だけが石造のように動けずにいる。僕より五センチほど背の低い彼女は背伸びをやめつつ唇を離すと言った。
「じゃあまたよろしくね」
 去っていく彼女の長い髪から花のような少し甘い香りが漂う。僕はさっきまで爆発しそうに鼓動を打っていた心臓を服の上から押さえると、緊張を振り払うように長く息を吐いた。

 彼女との不思議な関係は数か月前から始まった。高校に入学してすぐ、僕は隣のクラスの彼女に恋をした。半年片思いして、告白して、彼女に持ち掛けられたのはただの男女の付き合いとは少し異なるものだった。
「あたしの言うことなんでも聞いて。そしたらご褒美上げる」
 僕は彼女の言うがまま、いろんなことをしてきた。彼女の代わりにパンケーキの行列にならんだり、足の爪にネイルアートをしたり。彼女のお願いは僕の想像より優しいものが多く、その報酬のキスも唇が軽く触れるだけのあっけないものだった。僕は彼女と過ごす時間がいとおしくて、いつか本当に付き合える日が来なくてもこのままの関係を続けたいと思うようになっていた。

 ある平日の夜12時、彼女から突然電話があった。慣れたことなのでいつものように電話に出る。繋がってもしばらく流れるのは微かな息遣いだけで、僕は首を傾げた。
「あ…そこにいる?」
 彼女の小さな声が聞こえた。その声は今まで聞いたどんな声よりか細く震えていて、僕の心に一瞬で不安の色が広がった。僕は電話をつないだまま、上着を羽織ると夜の町を走り出した。彼女の家へただまっすぐ向かった。
 彼女の家には何度か行ったことがあった。僕の家の最寄り駅から二駅離れている。終電の時間ははとうに過ぎていた。ひたすら湿気を含む夜の闇の中を走る。電話口から微かに聞こえる彼女の息が僕の心を煽る。繋ぐ街灯の明かりは地面を這う星座の様に彼女の家へと僕を導いた。

 築数十年の少し汚れたアパートの一室。鍵は開いていた。僕は彼女の名前を呼びながら部屋に入る。人の気配がしない真っ暗な室内に僕の荒い息が吸い込まれていく。壁伝いに歩くと、リビングの手前の部屋から微かな呼吸音が聞こえた。
 うっすらと月あかりで照らされた室内。少女じみた家具に囲まれ、座り込む人影があった。長い髪の後ろ姿で彼女だとわかる。声をかけようと近付くと、彼女の周囲に赤い液体が飛沫しているのが見えた。
 僕は焦りの滲む声で彼女の名前を呼ぶ。彼女はゆっくり振り返った。涙でぐちゃぐちゃになった顔を隠しもせず、彼女は僕の目をじっと見つめた。
「ねえ、わたし悪い子かなあ。どうしてこうなっちゃうのかな」
 彼女は右手にハサミを持ち、左手を手首から流れる血で濡らしていた。僕は今まで見て見ぬふりをしていた彼女の左手首の傷口をじっくりと眺める。彼女の隣に座り込むと、糸が切れたようにフローリングに落ちている左手首を持ち上げ、優しくキスをした。彼女は焦点の定まらない瞳を泳がせ、その様子を静かな息で観察している。僕は黙って彼女の細い肩を抱きしめた。
「…あったかい」
 しばらくそうしたままじっとしていると、彼女が吐息交じりに呟く。僕は体を離すと、彼女の顔を見た。乾いた涙の奥の瞳は、月の光を反射してきらきらと輝いているように見えた。
「何回キスすれば一緒にいてくれるの」
 彼女の言葉と僕の心の妙なかけ違いに僕は思わず苦笑した。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン