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- 振り向き症候群を救う会
入江弥彦さん

入江です。狐がすきです。コンコン。 Twitter:@ir__yahiko
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七年前のハイジャック事件が怖くて飛行機に乗れない。三年前の殺人事件が怖くて人と口論ができない。十三年前の脱線事故が怖くて電車に乗ることができない。僕がこの世に存在する前の爆弾魔が怖くてビルの高層階には登れない。僕が生まれた日に母を殺した医者が怖くて病院に行けない。
過去に足を引っ張られ続けた僕は、今では立派な振り向き症候群だ。
「難しい顔してるよ」
「顔なんてそっちから見えないでしょ」
後ろを向いたまま歩く僕と手を繋いだミノリが、ふとそう言った。簡単に言葉を返すと、彼女が立ち止まる。
「かろうじて横顔が見えるかな。少し先を歩いてよ。そしたらちゃんと見えるから」
「そんなことしたら僕が転んでしまうよ」
「それもそうね」
彼女は納得したように頷いて、僕より少し先を歩き始める。
「段差があるから気を付けて」
彼女の指示に従ってそっと足を動かしたが、少しかかとが引っかかって転びそうになった。段差というほどの大きさではないそれが、足元に現れてどんどん遠ざかっていく。
僕が振り向き症候群にかかったのは小学校四年生の時だった。十年近く前、まだこの病気が有名じゃなかった頃の話だ。突然前を向いて歩けなくなった僕をクラスメイトはからかったし、父は気味悪がった。担任の先生だけが真剣に調べてくれて、やっと僕が振り向き症候群だとわかったのだ。
当時は街を歩けば馬鹿にされたものだけれど、現代病としてメディアが騒ぎ始めてから環境はずいぶん変わった。この病気を告白する女優、突然優しくなるクラスメイト、それから振り向き症候群患者を救う会、なんてのもできた。でも多分、彼らの活動は間違っている。
「あら、お散歩ですか?」
「ええ、そちらも?」
彼女が立ち止まって誰かと会話を始める。
ぐるっと首を回してみると、僕と同じように必死に顔だけをこちらに向けた男性と目が合った。この世のすべてを恨んでいるとでも言いたげな剣呑さをたたえた瞳に過去の自分を重ねる。こういうところが、振り向き症候群の発作だと気が付きながら。
「ミノリ、そろそろ行こう」
「あ、タカくんごめんね」
それじゃあ、と二人に挨拶をして歩き出す。こちらを向いたまま後ろ向きで歩いていく男性のほうを見る気になれず足元に視線を落とした。
「さっきのも、救う会の人?」
「そうだよ、私と同期」
僕の質問にミノリが少し嫌そうに答える。救う会の話題を出すと、彼女はいつもこうだった。
ミノリが嫌そうな顔をしたから救う会の話題は出さない。なんて、僕が思わないあたり、彼女の仕事も上手くいっているのかもしれない。
家に帰ると、彼女が甲斐甲斐しく僕の上着を脱がせてハンガーにかけた。
「ミノリはさ、そんなにお金が欲しい?」
「その話、する必要ある?」
「単純に、気になったから」
「じゃあ気にしないで」
一歩間違えたら口論になってしまいそうな空気も、彼女といれば平気だった。
「僕さ、今なら南の島に行ける気がする」
「経過は順調なんだね」
「高層ビルに登って夜景を見るのもいいかもしれない」
「……どうしたの、急に」
「僕がどれだけの過去を蹴落とせば、ミノリはこの仕事を終われるの?」
いくら給与がいいといっても、好きでもない相手と四六時中一緒にいるのは辛いことだろう。恋人ごっこで振り向き症候群が治るわけがないことくらい、僕自身がよくわかっている。不毛な時間を早く終わらせたかった。
「やめようよ、そういう話。私は報酬目的でタカくんといるんじゃない」
「じゃあ」
何目的だよ。そう言おうとしてやめた。
小学生から後ろを向いてきた僕が、ずっとそばにいる女性を好きになってしまうのは救う会から人が派遣されると父に聞いた時にはすでにわかっていたことだ。
「変なこと言ってごめん。今度旅行に行こうよ、電車に乗って」
僕がそういうと、彼女は心の底から安心したように笑った。
ミノリがいうように、僕の経過は順調だった。一か月後には電車に乗ったし、半年後には飛行機に乗った。三年後には医者のもとへ行って、劇的な回復だと言われた。
五年後である今日、僕は前を見て歩いている。
「もうすぐお別れだね」
「そうだね」
「六年かな、タカくんの担当になって」
新幹線に乗り込んだ彼女と、向かい合って話していると発車の合図が鳴った。彼女が窓越しに手を振る。これでもう、会うことはない。
一人で家に帰るために歩き出そうとして、違和感に気が付いた。いや、これは違和感ではなくて、本来の僕だ。
もっと早く治っていればこうはならなかったはずなのに。残念なことに僕の振り向き症候群が一時的に治ったのは、取り返しがつかないくらい彼女を好きになってしまった後だった。ほら、やっぱり彼らの活動は間違っている。
ミノリと離れたから、もう人と関わることができない。