1. トップページ
  2. 立つ鳥跡を濁さず

薬包紙さん

性別
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

1

立つ鳥跡を濁さず

18/01/09 コンテスト(テーマ):第152回 時空モノガタリ文学賞 【 酒 】 コメント:1件 薬包紙 閲覧数:86

この作品を評価する

 夕方、始発駅で停車中の車内。
 座席はちょうど人で埋まった程度の混み具合だった。

 座れたことに安堵しつつ、中吊り広告など見上げてぼーっとしていると、車両連結部のドアが開いて、一人の小柄な年配の男性(推定65〜75歳)が入って来た。
 ドカジャンというのだろうか。作業服の上から防寒のアウターを着込んでおり、赤らんだ顔、手ぶらのようすでポケットに手を突っ込みふらりふらりと歩く姿はまさに千鳥足だった。
 うっかり目が合ってしまい、0.5秒ほどの見つめ合いののち視線を逸らす俺。
 わりとしっかりした足取りでこちらに近づいて来る、と思ったらちょうど目の前で歩みが止まった。
 そのまま吊革につかまるでもなく寡黙に、彼は小さな奥目でじっとこちらの顔を見据えているではないか。

 これは…席を譲れというデモンストレーションだろうか。

 まわりを見渡してみても席がないのは彼だけ、狙いを定められたかのようなあんばいで俺の目の前に立たれている状況だ。
 ここはどうぞと譲るべきなのか。
 いや、疲れてるしな。30分ほどでも休みたい…。
 束の間の仮眠を俺にゆるしてくれ。そうしてくれるとじつにありがたいです。
 
 スマホを見つめながらまわらない脳内で逡巡していると、頭の上からいきなり、そうまさにいきなりである。
 おじいさんが歌いだした。
 それは鼻歌と呼ぶにはにはあまりに桁外れの音量、そして朗々たる響きを伴っていた。

 う、上手い…… のか?
 もはやよくわからない。

 と思わず顔を上げて彼をレベル。独特な節回しも加わり無視できない雰囲気が辺りを満たす。
 その迫力に圧され静まり返った停車中の電車内。そこにいた全員が聞き耳を立ててしまっていただろう。
 おそらくは軍歌だろうと思われるその唱歌の下、車両はまさに小リサイタル会場と化した。
 くどいようだが、直立不動のまま歌い上げる彼がその間じっと視線をそらさなかったのは俺の顔である。
 不自然さゆえに寝たふりをすることもできず、読みかけてはみたが文庫本の内容もまるで頭に入ってこず。居心地がよろしくないことこの上ない。

 何曲かのお披露目のあと、満足したのかいきなりぴたりと歌声が止んだ。
 ちらりと目を上げると彼がこちらに向かってかすかにお辞儀した、ような気配。

 拍手したほうがいいのか? 
 
 両手を宙に浮かせたまま固まる自分を尻目に、彼はドカジャンのポケットからおもむろにカップ酒を取り出し剥ぐように蓋を開け一気にあおった。ごくりごくりと美味そうに喉を鳴らして。
 それは先ほどまでの奇しさが一瞬にして洗い流されるように自然で鮮やかな所作だった。
 そして、あっというまに青いラベルの一瓶を飲み干してしまうと、もう気が済んだといわんばかりに発車のアナウンスを告げる車両からさっそうとしたステップでホームへと降り去ったのだった。

 立つ鳥跡を濁さず。

 つい、そんな言葉が思い浮かんだ。
 この間、およそ10分。
 誰ぞのネット上のつぶやきとなり、不特定多数のその晩の食卓の話題のひとつにでもなっただろうか。

 というより、あなたならばこのワンシーンの中でどのように過ごしただろうか。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

18/01/09 薬包紙

訂正
26行目 彼をレベル。→彼を見てしまうレベル。

ログイン