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竹田にぶさん

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勝負はもう決まっていた

17/12/18 コンテスト(テーマ):第149回 時空モノガタリ文学賞 【 弁当 】 コメント:0件 竹田にぶ 閲覧数:148

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 千駄ヶ谷駅を下りて、東京体育館を左手にまっすぐ進む。高層ビルも商店街もない静かな通りがしばらく続く。その道を通い始めた頃はまだ十代で、当時は一歩毎に気持ちが高揚していったのを神崎は思い出す。格闘リングに続く花道を歩く気分だった。
 五分ほど歩くと、小さな店が集まる五差路にさしかかる。左手に見える神社脇の道を通って、神社の裏手の坂を下ると、少し奥まって五階建ての建物がある。特別大きくも、立派でもない建物だが、神崎はそこに足繁く通った。目をつぶっても辿り着くほどに通った。そこは神崎の戦場、将棋会館である。
 ずいぶん前から、神崎は将棋会館への道に心高ぶらせることはなくなった。むしろ最近は通るたびに、不安が頭をもたげる。
 この先、自分はどうなるのか。
 頭から追い払おうとしても、粘りついてくる不安だ。その不安をやわらげるのは、勝ち続ける姿を想像することではなく、いかに身を引くかに腐心することだった。

 プロ棋士になるためには、養成機関である奨励会に入って三段まで昇段し、リーグ戦で一位か二位になる必要がある。さらに年齢制限もある。通常は二十六歳、延長措置を経ても二十九歳までにプロになれない場合、退会となって道は閉ざされる。神崎は今年、その二十九歳になった。その年までプロに挑戦を続ける者はごく少数だ。そうまでして神崎がプロを目指し続けた理由は、執念ではなく、惜敗続きで踏ん切りがつかなかっただけかもしれない、そんなふうに最近は考えるようになった。

 神崎の今期のリーグ戦戦績は、十二勝四敗。暫定二位であるが、三人が横並びしている。リーグ戦一位の者は一敗なので、すでに優勝は確定している。リーグ戦もあと二戦。偶然にも、神崎は他の暫定二位との対戦が残っている。もし神崎が一敗でもすれば、神崎がプロになる目はない。

 神崎は対戦の予定時間より早く、将棋会館に入った。対戦の日はいつもそうしてきた。そして休憩室で昼食を取る。妻の手作り弁当だ。対局の時の弁当は決まっている。トンカツか、カツサンドである。神崎のリクエストではなく、妻の験担きだ。しかし、今日はそのどちらでもなかった。カツカレーだった。カツカレーは神崎の好物であったが、妻がカロリーを気にして、食卓に上ることすらほとんどなかった。この日、カツカレーが弁当に詰められた意図を、神崎は見い出せないでいた。

 先に対局室入りした神崎は、後からやってきた対戦相手を見て、本能的に身震いした。相手はまだ十代だが、奨励会に入会してから、破竹の勢いで昇級してきた期待の新人だ。加えて今期のリーグ戦では、最初に三連敗したものの、その後は連勝が続いている。その勢いは立ち振る舞いにも表れていた。
 人生をかける対戦相手としては、これ以上ない。
 神崎は自分を奮い立たせ、初手を勢いよく放った。

 序盤から激しい攻めの神崎に対して、相手は徹底的に受けの姿勢を取った。中盤に入ってからも、神崎は攻めの姿勢を続け、相手は辛抱強く受け続けた。神崎の優勢で局面は進んだが、神崎の右脳は危険信号を発していた。ちょっとしたことで、大きく形勢が傾きうる危うい局面でもあった。手が進むに従って、局面は次第に混沌としていった。どちらが勝つのか全く見えなかった。
 神崎は勢いで手早く攻めてきたこともあって、時間を十分に残していた。一方、相手はしっかり時間を使って神崎の手を受けてきたため、一分将棋に入っていた。神崎は慎重に数手を進めた。そして、相手の次の一手に、不吉な感覚に襲われた。その感覚を確かめるように先を読み、背筋に汗が滴るのを感じた。二十手近く先で、詰まされていた。神崎は素早く相手の表情を盗み見た。相手は険しい表情のままだ。まだ詰みに気づいていないのかもしれない。神崎は急いで自分の手を読んだ。相手から一手遅れての詰みだった。相手は受ける方に精一杯で、詰みに気が付いていないのか。神崎の勝機は十分にあった。相手は十分に考える時間のない一分将棋だ。
 神崎は勝負の一手を指すために右手を伸ばした。しかし次の瞬間、その手が不意に止まった。妙なことに、新婚してすぐの妻とのやり取りを思い出していた。

「なんだか疲れた」
「あなた、カツカレー嫌いだった?」
「どうして?」
「だって、『なんだカツカレーか』って嫌そうに言ったでしょ」
「違うよ。『なんだか疲れた』だよ」
 二人は大笑いした。
 
 張り詰めた糸はぷつりと切れていた。濁流のような疲れが神崎の体に押し寄せた。戦う気力は残っていなかった。
 他人に何を言われようと二十九歳までやってきたじゃないか。もういいじゃないか。
 そんな思いと共に、神崎の胸に迫るものがあった。神崎は伸ばした手を駒台に置いて、投了を告げた。わけのわからない涙をさらす身の引き方だけは御免だった。

(了)


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