水谷暁さん

おじさんです。

性別 男性
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ハグ

17/12/03 コンテスト(テーマ):第148回 時空モノガタリ文学賞 【 ホラー 】 コメント:0件 水谷暁 閲覧数:234

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 クリスマス近い金曜深夜の駅のホームは、酔客で混み合っていた。ボクの連れは最終電車を待ちながら、もう一人と陽気なおしゃべりだ。
 ボクは手持ちぶさたにしていて、ふいに懐かしいにおいに鼻腔をくすぐられたんだ。
 甘い石鹸みたいな香りと、たばこのヤニくささが入り交じって、なんとも形容のしようがない。ある期間、確実にボクが間近で意識していた。その源に顔をうずめたい気持ちもわき起こってきた。
 見回した先に、四〇歳ぐらいのひとりの女性がいた。クリーム色のカシミヤのコートに身を包み、ホームのへりに近い柱のところで膝を抱えて、こっくりこと頭を揺らしていた。
 ボクは目を凝らした。横顔しか見えないけれど、ボクの知る彼女に間違いない。なんと言っても変わらない体臭――。
 約一五年ぶりの再会にボクは身を震わせた。肉付きがよくなったわりに肌の張りを失っているように見えたけれど、彼女をハグしたかった。そして、彼女からもハグされたい。
 顔を上げてくれ。ボクを見て、ボクをボクだとわかってくれ……。
 一五年前の短い期間、ボクはとても十分にハグされたとは言えない。むしろ、つらい仕打ちが多かった。思い出すと、今でも落ち着かない気持ちになるし、ボクの行いをあらためるべきだったのかもしれないと、深い後悔に襲われることもある。一方で、ボクへの仕打ちに、彼女も罰せられるべきだったと思い詰めてしまうこともある。
 ボクは彼女に歩み寄った。ボクの気配にはまったく気づかないようだ。もうすぐ最終電車が入ってくる。アナウンスはまだだけど、電車が近づいてくる微妙な振動が感じられた。
 電車が来ることを教えてやれば、彼女は間違いなくボクを見る。ボクが誰だか気付くだろうか。あの頃とずいぶん姿が変わってしまっている。面影を感じ取ってくれるといいのだけれど。
 ボクは彼女の間近まで行って、そっと膝に手を置いた。気付かない。指先に力を入れて、膝頭をぎゅっと押さえた。急にびくんと身を震わせ、顔を上げ、ボクを見た。
 酔っ払ってもうろうとしていたんだと思う。ボクが彼女のことを知っている最後のころも、酔っていることが多かった。今もそうなのか。ボクは悲しいような、哀れみを覚えるような複雑な気持ちで、彼女を見つめた。彼女はじっと怖い目をしてボクを見返してきた。あのころもこんな目でボクを見ることがよくあった。そんなときボクはどうしていいかわからず、彼女の胸に飛び込もうとしたのだけれど、拒否されることがほとんどだった。今も彼女は何か汚いもののようにボクを見つめ、右手を振り回して、ボクを払おうとした。
 ボクのことをわからないんだ。ほんの少しでいいからハグして欲しい。ボクは彼女の手の下をかいくぐるようにして一歩踏み込んだ。最終電車の入線を伝える駅員の声が流れる。彼女はふらふらと立ち上がった。もうボクのことは眼中にない。思い出して欲しいのに。
 ボクは彼女に体を寄せて行った。彼女は逃げるように体を泳がせた。ひょっとしたら、ボクが誰だか気付いたのかもしれない。突然、罪の意識に目覚めて、ボクから逃れようと思ったのか。
 お母さん、継父がボクをいたぶるのを、あなたは見て見ぬふりをしていた。ボクをかばえばあなたも痛めつけられる。だからお酒に逃げていた。今ではそれはわかるよ。でもボクはあなたにハグして欲しかったな。せめてお母さんの腕の中で息を引き取りたかった。
「お母さん!」
 ボクは息を呑んだ。電車がけたたましいブレーキ音を立てたけれども、急には止まれなかった。お母さんはあっという間にプラットホームの端から消えていた。一瞬にして行って≠オまったのだ。お母さん、ボクは生まれ変わってここにいるんだよ。あの世にはちょっとしかいなかった。あっちに行ってもボクをハグすることはできないんだ。また離ればなれになるのは嫌だよ。ボクも連れて行って……。
「タロウちゃん! 危ない!」
 ボクの連れが悲鳴のような声でボクを呼び、首根っこをつかんで、自分のほうに引き寄せた。
 ごめんなさない。お母さんを起こしたのがいけなかった。ボクが行かせた≠謔、なものだ。あの頃もそうだったけれど、どうしてボクはお母さんたちの意に沿うことができないんだろうね。ごめんなさい。ボクもいっしょに行ければよかった。あの世ででもいいからハグして欲しかった。許して……。

 急停車した電車の下、線路上には真っ赤な液体が広がりはじめていた。電車を待っていた客たちがおそるおそるようすを見ようと身を乗り出すのを、駆け付けた駅員が制止する。けたたましく非常ベルが鳴り響いていた。
「タロウちゃん、怖いもの見ちゃったね。もう大丈夫だからね」
 若い女が野次馬に背を向けて離れていく。その腕に抱かれて、一匹の雄ネコがみゃあみゃあと興奮したようすで声を上げていた。


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