1. トップページ
  2. Sを殺しに

秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

性別 女性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

3

Sを殺しに

17/11/16 コンテスト(テーマ):第147回 時空モノガタリ文学賞 【 迷い 】 コメント:0件 秋 ひのこ 閲覧数:280

この作品を評価する

 そのまちは、東京よりも空気がしんと冷えていた。桜がまだ咲いていないことにまず気がつく。
 駅前のホテルで一週間分を前払いし、19時5分になる前に駅の向かいの定食屋に移動する。
「きた」
 八重子が小さな声で囁くと、24になる娘の七美が肩越しにさっと入口をふり返る。
 ひとりの青年が慣れた様子で暖簾をくぐり、奥の席についた。調査報告にあった通りだ。19時5分着の電車を降り、この店で夕食をとる。月曜から金曜まで、同じパターン。今日は、水曜日。
「ここまできたし、本人はすぐそこだし、もうやるしかないよね」
 七海が言うと、母はうん、とうなずいた。

 翌日から、八重子と七美は報告書をもとにS青年を追った。朝は7時半ちょうどの電車に乗り、2駅先で下車。職場は老人ホーム。週5日8時間勤務。寄り道はしない。土日は昼頃パチンコに出かける程度。
 勤務中は日に1度、車椅子を押して近所の公園まで散歩にやってくる。それを見るために、母娘はやわらかい日差しを浴びながら、公園のベンチでひたすら待つ。
 長い間並んで座っていると、どちらからともなく胸の内にあるものが少しずつ外に出る。
「刃を、身体に突き刺せば、痛いでしょう。痛いに決まってる」
 この日は八重子が淡々と話し出した。
 でもその痛さを想像できないの。皮膚を裂き、肉を分け入ってくる切っ先。骨に当たればどう響くのか、どうしてもわからない。わからないまま、彼にそれを与えてしまっていいのかしらね。
 翌日は、七美がこぼした。
 あの子が息を引き取った時、「もう苦しまなくていい。もう痛いのは終わったよ」って言ったじゃん。アイツを殺せば、アイツも苦しむのは一瞬であとは楽になるかと思うと、それでいいか迷うよね。矛盾するけど、アイツには死んでからも苦しんでほしい。
 
 八重子の息子、七美の弟である溝口準弥は高校入学直後の春に、同級生であるSに刺し殺された。ムカついて死ねばいいと思った――、Sが吐いた正直にもほどがある幼い本音を、八重子は忘れられない。
 裁判の末、Sは医療少年院へ。詫び状のひとつも送ってこず、わずか6年で出院。名前を変え、別人として暮らしているという。
 「被害者の会」の情報網で偶然それを耳にし、それから探偵を何人も雇って国中を探し回り、3ヶ月前にようやくこの地でSを見つけたのだ。
 母娘は、復讐を心に決めた。

 6日目、準弥の命日。
 19時5分に電車が着き、改札から人が吐き出されてくる。Sはいつも通り一番端の改札を通り、駅前広場を抜けて横断歩道へ向かう。その背に、八重子は声をかけた。
「これ、落とされましたよ」
 用意したICカードを差し出す指が震えた。Sは立ち止まり、一瞬驚いたようにそれを見て、「や、違います」と早口で答えた。八重子の顔を見ようともしない。
「本当に? 確かめなくて大丈夫ですか?」
 八重子が大きな声で食いつくと、さすがにSも短く八重子を見返す。その目は不審に満ちていた。
「僕、磁気定期なんで」
 顔をしかめて答えると、きびすを返した。
 自分に気づかなかった。八重子は拍子抜けして立ち尽くす。裁判で一度もこちらを見ようとしなかったSだ。そもそも顔など覚えていないのかもしれない。
 右手がすっと鞄に移動し、包丁の柄を握り締める。まだ、間に合う。引き留めて、名乗って、それから――、
 おろおろと動こうとしない母の姿を、少し離れたベンチで七美が奥歯を噛み締め見守っていた。失敗すれば自分が飛び出して止(とど)めを刺す――これが母との約束だ。
 信号が変わり、Sはどんどん八重子から離れていく。気になるのか、一度だけさっと振り返った。今動けば、まだ間に合う。七美はコートのポケットでナイフを握りしめ、足を踏み出した。
「お母さん」
 ナイフをポケットに残し、七美は八重子の肩に手を置いた。
 はっと振り返った八重子の顔が、安堵と焦燥でぐしゃりと歪んだ。

「ここまで、きたのにね」
 青白い蛍光灯に照らされ、ホームのベンチに腰かける八重子の瞳に生気はない。
「怒りとか、憎しみが、足りなかったのかなあ。充分すぎるほどあると、思っってたのに。どうしよう、情けない、準弥に申し訳な……」
 声が割れ、殻を閉じるように八重子はぎゅっと身体を丸めた。七美が疲れた顔でそっと背中をさする。
「たぶん、どっちに転んでも同じだったんだよ。どっちに転んでも、結局これでよかったのかって後悔して、苦しむ。でもさ」
 七美はぎゅっと唇を噛み、ひと言ひと言噛みしめるように告げた。
「明日、ちゃんと準弥の七回忌ができるのは、やっぱりちょっといいねって、今は思う」
 電車到着の放送が流れる。
「帰ろう」
 七美は顔を上げた。
「帰ろう、お母さん」
 視線の先、薄闇の向こうに、もうじき咲きそうな桜の枝が揺れていた。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン