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緑がかった濃い水色さん

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11月のクリスマスツリーとホットココア

17/11/12 コンテスト(テーマ):第147回 時空モノガタリ文学賞 【 迷い 】 コメント:0件 緑がかった濃い水色 閲覧数:58

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そのパン屋で私は、フォカッチャとココアを頼んだ。席を選ぶことすら受け入れないほどの倦怠感を纏った私は、重力の赴くままに入口側のカウンター席に座り、ガラス越しに見えるエスカレーターをぼんやりと眺めていた。
大学受験を控えた11月のある日。どうにも集中できず、予定より早く映像授業を切り上げたものの、赤本がどんと待ち構える自分の部屋にはどうしても帰る気が起きない。そこで私は、夜11時まで営業しているこのパン屋に立ち寄った。
夕方6時の店内は半分以上席が埋まっていて、騒々しかった。一切の思考を放棄したかった私は、気怠げに音楽アプリを開き、よく歌詞の聞き取れない適当な洋楽で耳を塞ぐと、イヤホンの音量を少し下げた。ココアの甘い香りが、あたかも幸福な気分にさせる。てかてかと白いフォッカチャを、一口大にちぎって口へ運んだ。おいしいなあ、と心で呟く。18歳になってからというもの、月経前の心身の不調が目立つようになった。体がだるく、あらゆる物への関心が消失する。お気に入りのアーティストの歌も、好きなテレビ番組も、もちろん英単語帳も、健全さを失った精神は受け付けない。しかし美味しい食べ物だけは、裏切らなかった。どんなに心身を病んでいるときでも、美味は変わらず私を癒す。そしてこれから先もきっとそうだ。そういう存在があるだけでも幸せなのかもしれない、と陰鬱な心に無理矢理楽観の光を当てた。
フォッカチャを食べ終えると、冷ましておいたココアに手を伸ばした。ココアが注がれる直前まで厨房で熱せられていたであろうカップを手で包むと、まだ一定の熱を帯びていて、すぐにそれを離した。取っ手を持って、注意深くゆっくりとココアに口をつける。普段飲む缶のココアの味とは違う、柔らかくコクの深い甘みは、小さい頃に図書館のカフェで母と飲んだココアのそれと似ていた。私が小学生の頃から勉強に厳しかった母は、母の出身高校である県内一の進学校に合格すると、成績に関してほとんど口を出さなくなった。自分が大学受験にはあまり力を入れなかったからだろうが、最近は、もう少し厳しい言葉をかけてくれてもいいのに、とさえ思う。とは言え母は、定期的に襲来する、受験のストレスを飲み込んで肥大した月経前症候群に心身を蝕まれる私にとって、一番の理解者だ。母が時間とお金をかけて私をここまで育ててくれたという事実も、「死にたい消えたい」が心の中での常套句になってしまった私を、それらのくだらない思考の海から引き上げてくれる。
店の外に目をやると、クリスマスツリーが飾られていた。冬の一大イベントを悠然と待ち構えるその姿は、先の読めない将来から目をそらす愚かな私を軽く見下しているかのようだった。気が早いなあ、と思うより先に私は、カップの底を見せようともしないほど濃い、焦茶色のココアに視線を戻した。そしてまたエスカレーターの流れをしばらく見つめていた。
ふと店内を見渡すと、人々はそれぞれの都合で、何らかの意味を持つことをしていた。私は、人を乗せずに流れ続けるエスカレーターを、意図もなくぼーっと眺めている。当初の目的を果たした私は、今自分は何も生み出さない意味のない時間を過ごしてるな、と不意に笑みを浮かべた。しかし結局、自分は恵まれているのだろう。世の中には私よりずっと余裕のない人が大勢いる。うっすら反省の色を帯びた自覚が頭を過ぎったのと、ほぼ同時のことだった。

パァンッッ

銃声のような音が空間を割いた。びくっと僅かに体を震わせた私が思わずカウンターの逆端を見ると、30代半ばほどの地味な格好をした女性がしかめ面で何かのテキスト冊子らしいものに手を置いていた。冊子の背表紙が机に当たったのだろう。そうと分かっても、私の鼓動は鳴り止まず、目も潤んでくる。気がつくと、さっきまで音で溢れていた店内は、冷たい沈黙に支配されていた。
女性は苛立ってテキスト冊子を机に打ち付けたのかもしれない。だからといってそこまで大きな音を出すのもどうかと思うが。それまで幸福な憂鬱に酔っていた私には、その怒りが自分に向けられたもののように思えてならなかった。私は行き場のない罪悪感と憤慨を、ココアに溶かして一気に流し込もうとした。


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