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本宮晃樹さん

ふつうにサラリーマンをしております。 春夏秋冬、いつでも登山のナイスガイ。 よろしくお願いします。

性別 男性
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九千メートル級越しのデート

17/11/04 コンテスト(テーマ):第146回 時空モノガタリ文学賞 【 デート 】 コメント:0件 本宮晃樹 閲覧数:122

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「どうした。ビビってるのか」相棒の倉本さんはにやにや笑っている。「ま、無理もないわな。〈グレートウォール〉を越えようとして戻ってきたやつはいないんだから」
「ビビってなんかいませんよ」気合い一発途方もなくでっかいザックを背負う。ずっしりと肩にバンドが食い込んだ。「ちょっと感傷に浸ってただけです」
「そうだったな、すまん。お前の親父さんもそのうちの一人だったっけ」
「謝るなんて倉本さんらしくないですよ。早いとこ出発しましょうや」
 初夏の早朝、モルゲンロートで朱に染まった九千メートル級の山脈。息を呑むほど美しい。神話によればこの島を東西から圧迫していた海洋プレートが突如猛烈なスピードでその仕事をやり始め、日本アルプスと呼ばれていた山脈が隆起したのだそうだ。それが〈グレートウォール〉であり、以来完全に東西は分断された。
「日下部くん!」やっと出発したところへ息を切らせて誰かが駆けてくる(白状すれば誰かはちゃんとわかっていた)。たちまち追いつかれた。「どうしてあたしに黙っていっちゃうかなあ」
「これはかすみ嬢、ご機嫌うるわしゅう」おっさんが大げさな身振りであいさつした。「俺、ちょっくら向こうで小便してくるわ」片手を挙げて陽気に退場する間際、ぐいっと肩を掴まれた。「うまくやれよ、日下部」
「で、これはどういうことなの」
「どうもこうも、やっと遠征の準備ができた。それだけさ」
 かすみは額に手を当ててため息をついた。「日下部家の宿命ってやつね」
「かもな。じゃ、また」
「ひとつ約束」正面に回り込まれた。「絶対に戻ってくること。いい?」
 茶化そうと思ったが、瞳が潤んでいる。実に気まずい。「努力はするよ」
「帰ってきたらあたしと散歩しながら〈イーストサイド〉のことを聞かせて」いたっずらっぽく笑った。「もちろんお風呂に入ったあとでね」

     *     *     *

 標高六千メートル付近に最後の拠点である掘立小屋があり、そこにクライミング道具一式が残置されている。これらを使って五百メートルものビッグウォール〈死の先触れ〉を攻略するのだ。
 われわれはハーネスにロープを通し、大量のカラビナをぶら下げ、ギアポーチにハンマーやらピトンやらカムやらの雑貨を詰め込み、手にチョークをまぶした。身を切り裂く寒さのなか、上部が霞んで見えない岩壁が立ちはだかる。
 登攀が始まった。手がかり足がかりを巧みに見つけ、三点確保でじりじりとよじ登る。先行者の残した残置支点に随時カラビナを通し、プロテクションをとっていく。支点が見つからない場合はピトンを打ち込む。オーバーハングは支点にアブミを垂らして乗り越える。
 何ピッチ登っただろうか。わたしがリートを終えて倉本さんをビレイしているとき、突如ロープに荷重がかかった。おっさんが墜落したのだ。即座にボディビレイするものの、足場の悪いなかで――幅五十センチにも満たない出っ張り――荷物を合わせれば百キロ超にもなる物体を保持し続けるのは並大抵のことじゃない。
 さらに悪いことに、ぎしぎしと不吉な音が背後から聞こえる。セルフビレイに使っているボルトが抜けかけているのだ。これが抜ければわたしたちは一巻の終わりだ。
「倉本さん!」下へ向けて怒鳴った。「早く壁に取りついて。ボルトが抜けそうなんです」
「無理だ!」だみ声が怒鳴り返してきた。「ハングの真下にいる。壁との距離がありすぎる」
「ユマールすればいいでしょうが」反応はなかった。「倉本さん?」
「日下部」なにかを決意したような口調。「お前は若い。俺はそうじゃない」
「なに言ってんですか。なんでもいいからハングを乗り越えてください」
「お前にはふたつのデートが待ってる。わかるな」
「禅問答やってる場合じゃないでしょうが」
「ひとつはかすみ嬢との散歩」ちくしょう、なにが小便だ。ちゃっかり聞いてやがったのだ。「もうひとつは〈イーストサイド〉にいるであろう連中との邂逅」
「ふたつめはあんたと一緒でも問題ないはずですよ」沈黙。「ねえ倉本さん!」
「あばよ。しっかりやれよ」
 次の瞬間、ロープが軽くなった。おっさんが自分で切断したにちがいない。ほぼ同時にセルフビレイのボルトが抜けた。
 頭にくるほど倉本さんの判断は正しかったのだ。

     *     *     *

 数日後、ついにわたしは〈グレートウォール〉のコルに着いた。
 標高九千メートルの峠。ほぼ対流圏と成層圏の境界面。酸素ボンベ容量には限りがあるので、むろん長居はできない。だが見るがいい、一点の曇りもないこのスカイブルーを!
「倉本さん、かすみ」わたしは思わずつぶやいていた。「ぼくはやったぞ」
 長い対岸の下りが待っているが、不思議とやり遂げられるという確信があった。
 はずせないふたつのデートがあるのだ。


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