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朝綺さん

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ラストダンス

17/11/03 コンテスト(テーマ):第146回 時空モノガタリ文学賞 【 デート 】 コメント:0件 朝綺 閲覧数:120

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 十月も終わりに近付いた、土曜の静かな夕暮れだった。
「わたし結婚することにしたの」
 彼女がけろりと言ったので、私は心底驚いた。私の認識が正しければ、私たちは恋人同士のはずだった。そして彼女は、結婚しましょうとは言わなかった。
「びっくりした?」
 いたずらな子どもみたいに彼女が笑う。無邪気で、そのくせどこか大人びている。楽しげで、なぜか寂しい。
 爪の綺麗に整えられた、白く繊細な指先が、労わるようにそっと私の頬を辿る。薬指を飾るつやつやとしたシルバーのリングは、三年目の記念日に、ふたりで選んで買った物だ。揃いの指輪が私の胸元でも揺れている。鎖に通して首に繋いだ。箱を開けたあの日から、一度だって外していない。
「びっくり、っていうか」
 確かに驚きはしたけれど、そんなのは一過性のさざめきだ。今は混迷の方がよっぽどに大きい。脳が思考を放棄している。まるで糖分切れの脳みそが、虚しく空転するように。
 穏やかに凪いだ彼女の瞳がじっと私を映し込み、言葉の続きを待っている。言うべき台詞はもはやないということだろう。告げるべきは告げたから、あとはただ、私の言葉に応えるという。
「どう、して?」
 哀しみと呼ぶには透明に過ぎる感情がひたりと満ちた。胸を満たし、喉元までせり上がり、言葉を詰まらせ、映る世界を滲ませた。知っている。私は彼女の恋人なのだ。随分と長いこと、ふたりぼっちで生きてきた。だからこそ知っている。こんな残酷な冗談を、彼女は嘘でも口にしない。生半な覚悟や一時の気紛れで、こんなことは言い出さない。これは多くの時間をかけて、必然になった彼女の心だ。
「あなたが好きよ」
 頬を滑った指先が胸元に降り、そっと鎖を引き寄せた。掬い取られた私の指輪を、彼女の親指が愛しげに撫でる。温度や形やきらめきを、確かめ閉じこめるように。
「だからずっと、お揃いの指輪がしたかったの」
 伝わる? とでもいうように、彼女が小首を傾げて見せる。肩口で切り揃えられた綺麗な髪がさらりと揺れる。
「あなたとお揃いの指輪をして、街を歩いてみたかった」
 それでわかった。わかってしまった。それは私が望むこともしなかった、彼女の夢だ。
 それだけのとは思えなかった。彼女と揃いの指輪を身につけ、街を歩いたこともない。それが手に在る現実だった。なにを言う資格があろう。そもそもの最初から、私は彼女を選び損ねた。体面や常識や他人の目。そうした物に囚われて、恋人の、ささやかで切実な願いを見殺しにした。
「居ると思うの」
 優しく、毅然と、彼女が囁く。
「あなたがそうしたいと思える相手」
 ほとんど必死にかぶりを振った。彼女はただ柔く笑った。聞き分けのないいとし子を、心から慈しむように。
「最後にデートしてくれる?」
 答えに詰まった。首を縦にも、横にも、動かすことができなかった。
 それがただのデートなら、いくらだって喜んでするのに、最後だと、彼女が決めてしまっていたから。


 よく晴れた、とても綺麗な秋の日に、私は初めて鎖を外した。



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