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伊川 佑介さん

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自己憐憫の奈落

17/10/25 コンテスト(テーマ):第147回 時空モノガタリ文学賞 【 迷い 】 コメント:0件 伊川 佑介 閲覧数:341

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 気づくとそこは、暗闇だった。何が起きたのか。先ほどまで私は、夕暮れの海岸を犬と一緒に歩いていた。それで、ああ、そうか。落とし穴だ。そう言えば「マジヤベー」って声が上から聞こえた気がする。その後ショックで気を失ったようだ。あの声の主は誰だろう。そもそも私はここへ越してきたばかりで、知り合いはいないはずだ。とにかくここから出ないと、と立とうとして、足に激痛が走った。変に曲がっているようだ。ふいに左手を伸ばすと何かにぶつかり、土が崩れる音がした。もしかすると私がいる空間は、崩れる寸前の危ういバランスの上にあるのかも知れない。そっと触って確かめると、私は直径一メートルほどの狭い空間に閉じ込められていた。深さは分からない。頭上にベニヤ板みたいなものがあることを考えると、板が上からの土や砂の侵入を押さえているようだ。ここは一気にもがいて地上に這い出るべきか。しかしそれで余計に砂に埋まったらどうしよう。そもそもいつまで酸素が持つか分からない。そう考えた時、別にこのままでいいかなと、ふと思った。

 私が東京からこの湘南の地に越してきたのは、つい三週間ばかり前のことだ。この地には三年ほど前から何度も通いつめた。交際していた女性、真美子が住んでいたからである。真美子は当初ここに住む理由を「海が好きなの」と語っていた。しかし彼女は夏になっても日焼けするからと海で泳ごうとしない。歩いて行けば十分ほどの距離の海に、散歩に出かけもしなかった。これは何か裏があると蓋を開けてみれば、不倫であった。彼女は湘南に住む家庭持ちのおっさんの不倫相手として、近くに住むよう命じられていたのである。不倫というのは精神的に苦しいもののようで、時に何かにすがりたくなる。そんな時、ふと彼女が横を見たら、私がいたのだそうだ。彼女は言わば二号さんで、私も彼女にとって二番手かそれ以下だったのである。おっさんとの関係を涙ながらに告白された私は、彼女を許してしまった。おっさんと別れろとも言えなかった。言えば彼女が私から離れていくのが必定だったからで、私にはもはや彼女がいない生活は考えられなかったからである。全く私は情けない男で、彼女は彼女で狡猾で、どうしようもない女である。そのどうしようもなさも含めて、私は彼女が好きだった。

 頭がぼんやりしてきた。止めどなく涙が溢れてきた。這い出るならもう時間がない。しかしその先に何があると言うのか。真美子は今、東京にいる。不倫相手と別れ、湘南に住む理由がなくなった彼女は、私にも交際の解消を告げてきた。好きな人ができたということであった。彼女は今、その男と東京で暮らし、婚約したということだ。私の心は張り裂けて中身が飛び散り、抜け殻になった。会社を辞め、故郷の東京を離れ、思い出の湘南にひとり越してきた。慰みに雌犬を飼い、真美子と名付けた。
 そう言えば、犬の真美子は大丈夫だろうか。成犬に近い犬を安値で買ったこともあってか、あまり懐いていない。先ほどの散歩中も私を無視して離れた所を歩いていたので、おそらく穴には落ちていないだろう。人懐こい犬で、私以外にはよく愛想を振りまく。このまま私と離れ離れになっても、誰かに媚を売って元気にやっていくだろう。この落とし穴は私の運命なのかも知れない。ここ三年、私は真美子の為に生きた。彼女の為に働き、何をしたら彼女が喜ぶか、それだけを考えていた。元々私の人生は、生きているか死んでいるか、それすらも分からぬような味気ないものだった。彼女と出会って、生まれてこの方モノクロだった世界が初めて色を持った。だから彼女が去っていった時、私の命はそこで終わったのだ。

 ゴミ屑みたいな私の人生。埋まったまま骨になるのも一興だ。真美子は今、どうしているだろうか。幸せにしてるだろうか。最後に彼女に一目会いたい。彼女がここへ来て、少しの笑顔でも見せてくれたら。でももう彼女は人妻だ。私のことなど芥ほども気にしてないだろう。
 ザ、ザと掘る音がした。上からパラパラ砂が落ちてくる。誰かが穴を掘り返しているのだろうか。余計なことをしないでくれ。私は真美子の思い出と共に死ぬのだ。なおも掘る音がする。うっすらと地上から光が射した。眩しい夕陽の光の中に、私を必死に救い出そうとする、真美子の姿が見えた。
(真美子……)
気づけば私は砂の上に這い出していた。彼女を強く抱きしめる。海を見ると、ちょうど地平線に夕陽が沈もうとしていた。ワンと一つ真美子が吠えて、急に我に返った。足が痛む。現状の空虚感は何一つ満たされていない。真美子が早くも私に興味を失って遠くへ走り去っていく。生暖い潮風が吹いた。何だか全てがどうでも良くなってきた。立ち上がって海に「バカヤロー」と叫ぼうとして、足がポキッと音を立てて折れた。


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