1. トップページ
  2. 黒人間と白烏

ドーンヒルさん

趣味は、読書,旅行,写真です。 主に、純文学系の作品を書きます。 よろしくお願いします。

性別 男性
将来の夢
座右の銘 苦しむこともまた才能の一つである               フョードル・ドストエフスキーより

投稿済みの作品

0

黒人間と白烏

17/10/22 コンテスト(テーマ):第145回 時空モノガタリ文学賞 【 財布 】 コメント:0件 ドーンヒル 閲覧数:118

この作品を評価する

 終電の車内では、ひとときの快楽と永劫の暗闇が渦巻いていた。乱雑なアクセルとブレーキが、高波のように繰り返し押し寄せた。ささやかな天の心地から引き離された人々は、眠たげな眼を見開いて、スマートフォンをいじり始めた。
 終点から三つ手前で、隣に腰かけていた女性が下車した。辺りに乗客がいないことを確認して、鞄を置こうとすると、白い革財布が置かれていた。扉が閉まっていなかったので、届けようと思い、立ち上がった瞬間、隣から、待ちな、と声がかかった。声の主は初老の男で、左手に缶ビールと競馬新聞を抱え、酔いが回っているのか、下世話な笑みをこぼしていた。
 「いや、素晴らしい心がけだね。そう、兄ちゃんは偉い人だ」
 男はこう続けた。
 「でもね、あんな美人なんざぁ、貯えなんていらないものさ。身体を使えば、いくらでも入ってくるだろう。男は存外馬鹿だからな」
 男は財布を取り上げて物色を始めた。札束ともなると、目の色を変えて、勘定を始めた。
 「二十三万と五千円だ。どうだ、兄ちゃん。これは神様の施しだ。しがない俺たちを憐れんでいるんだろう。畜生!この金で、あの女を買いたいぜ」
 なるほど、確かにしがない人生だ。毎晩、こういう奴らと席を共にしなければならないのだから。
 「まあ、仲良く半分ということで、どうよ」
 十万あれば、当面の生活が潤う。男の主張は大部飛躍しているが、この程度のことで罪に問われるのだとすれば、明日の朝、列車に体当たりしてもいい。
 「財布と十万でいい。残りは持って行って下さい」
 男は取り分が多いことに満足したようで、飲みかけのビールを一気に飲み干した。
 終点から一つ手前で男は降りた。気が付けば、他の客の姿はなく、窓越しに映しだされたサラリーマンの不吉な笑みに一瞬身悶えしたが、それは束の間のことだった。容赦ないモーターの雄叫びが、伏魔殿に響くオルガンのように、暗黒の嵐を巻き起こした。
 終着地の時計は一時を廻っていた。雨足は衰えることを知らず、静かなる漆黒にモノトーンな音色を加えていた。その一滴一滴が、効きすぎた暖房のせいで熟れたリンゴのような頬を優しく伝った。車庫へ帰る列車を見送って、テールライトと、信号所に灯る赤と緑が織りなす小世界をじっと見つめていた。ふと、内ポケットにしまった例の財布を取り出して宙にかざした。それは、決して似つかわしくない白光で、雲間から恥ずかしそうに顔を覗かせる星々を凌駕した。
 どれほど酔いしれていたのか、雨はすっかり止み、遠くの稜線が赤みを帯び始めた。暁の静寂を乱すように、一羽の烏が忙しく、ごみ箱から溢れた食物を漁っていた。仲間からはぐれたのだろうか。風流な朝を愉しんでいるのだろうか。見つめている内に、二度か三度、視線が交わった。つぶらで紫黒に染まった瞳は、母なる陽光を浴びてどこか優しかった。
 一番列車の入線を告げるアナウンスが、ホームに響いた。旅立ちの頃合いを悟ったのか、烏は濡羽色に染まった翼を大きくはためかせた。財布から札束を取り出して、大きく左右に揺らした。雲一つなく、鳥の子に染まった空を、ありとあらゆる錆で覆いつくそうと思った。きれいな瞳を、壊してやりたかった。
「これっぽっちの金で、君の翼は買えないか……」
 暫くの間、烏が黒紅のしみとなって、薄紅のキャンバスを縦横無尽にかけていくのを見つめていた。鳥になるという、幼い頃の他愛もない夢を思い出して、幾度となく顔がほころんだ。嵐が去って灰色に戻ったキャンバスを何に染めようか。
 始発の車内では、ひとときの安堵が渦巻いていたが、切なさが結晶になって窓一面を濡らしていた。眠たげな眼を一生懸命閉じて、天の心地を得ようとしたり、早々にあきらめて、溜息の回数を競い合ったりしていた。
 相変わらず極端な暖房のおかげで、血の通いが良くなった頬は、すっかり桃色に染まった。いつからか、その頬を撫でていた露が、塩辛い滴となって口元を伝うようになった。
 三つ目の駅に着きかけた時、昨晩の女性が乗り込んでこないか、と期待した。一夜のスターとなった白財布に導かれて、二人は再会するのだ、と考えを巡らせていたその時だった。ドアの開く音と共に、ヒールの叫びが響いた。おぼろげな記憶のピースが、一つずつつながっていった。隣に腰かけたのは、一途に再開を誓ったあの女性だった。かつてない清々しさを胸に憶えた。焦燥に味付けされたキャンバスが受け入れたのは、どこまでも澄み切った純白のクレヨン、ただ一つだった。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン