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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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赤いプラダ

17/10/20 コンテスト(テーマ):第145回 時空モノガタリ文学賞 【 財布 】 コメント:0件 秋 ひのこ 閲覧数:128

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「工藤様、この度はご愁傷様でございます」
 火葬場の職員が神妙な面持ちで深く頭を下げた。右手に骨壷、左手は5歳になる娘のナツとつなぎ、ケイコは目礼で返した。葬儀はせず火葬だけで母の死を弔ったのは、ケイコとナツのふたりだけだ。
 骨壷に納まる母はまだ若く、享年45。7年前、17で家を出て以来、顔を合わせたのは向こうから金をせびりに来る時のみ。
 アパートに戻ると、家の前で人相の悪い中年男が待っていた。借金取り、という言葉が浮かび、反射的にナツを背中にまわす。男はじろりとふたりを一瞥すると、「あんた、工藤里美の娘?」と野太い声で尋ねた。
 
 畳の上に、縦長の紙袋がひとつ。
 男が届けにきた母の遺品は、紙袋ひとつ分。
 近年は住所不定であちこち泊まり歩き、時にホームレス同然の生活をしていた母が最期に雨をしのいでいた場所が、男の家だったらしい。
「これなーに? あけないの?」
 ナツは紙袋の中身が知りたくてしょうがないらしく、さっきから何度も袖を引っ張る。ケイコはひとつ息を吐き、正座したまま一気に紙袋を底からつかんで逆さまにした。ナツが歓声をあげた。
 口紅、BBクリーム、眉墨、香水、よれたブラウス、赤い下着、歯ブラシ、そして――、
 所々はげたエナメル。古びた赤いプラダの長財布。
 45歳住所不定無職で逝った母の、生涯自慢のプラダ。

 物心ついた頃から瞼に焼きつく母の印象は、赤一色だ。赤いワンピース、赤い爪、赤い唇。そして、赤いプラダの長財布。
 ぺたぺたテカテカした質感が無駄に安物っぽいと思った。しかし、当時母はまだ自分で稼げており、男に貢がせたのではなく自腹で買ったそれを何より誇りにしていた。
 あの頃、赤いプラダには常に万札が入っおり、ケイコは時折それをくすねた。無防備にコタツの上に放られた財布。その足元で泥酔した母がだらしなく四肢を投げ出している。見つかった試しはない。でも、多分彼女は知っていたのだろうと思う。

「ママあ、これもおさいふ?」
 ナツが床に散らばった小物をあさり、赤くふにゃふにゃしたものを見せてきた。あっと息が詰まる。
 赤い着物の端切れを使った小さながま口。ケイコの人生で最初の財布。小学校の時からもち始め、色も形も段々嫌いになっていったのに、結局高校卒業まで使っていた。家を出る際、プラダから最後にくすねた金をポケットにねじこみ、この赤いがま口は確かにゴミ箱に捨ててきたはずなのに。
 右手にプラダ、左手にがま口をのせ考え込んでいると、隣でナツが紙袋に顔を突っ込み、「くっさ」と顔を歪めた。「サトちゃんのにおいがする」
 確かに、プラダから、ブラウスから、八畳ひと間のこの部屋に甘ったるい煙草と安い香水の匂いが満ちつつある。嗅ぎ慣れた、赤いにおい。
「おばあちゃん、でしょ」
 ケイコは気づいてしまった臭いに顔をしかめながら、機械的にたしなめた。
 ナツが生まれたとき母は40で、頑なに「おばあちゃん」と呼ばれることを拒んだ。「サトちゃんと呼んで」と繰り返し言い聞かせてこの様だ。
 婆ちゃんは婆ちゃん。歳なんか関係ない。それは、母に対する悪意と紙一重の正当な抗議だった。若作りに必死で、常に若い男を追いかけては金だけ吸い取られて玉砕し、その理由を省みもしない愚かな女。若さが売りの商売にいつまでもしがみつき、棄てられても否定されても現実を認めない頭の悪い女。果ては永遠に埋まることのない実の娘との歳の差に嫉妬する惨めな女。
 彼女は若さも煌びやかな宝飾も金も家も失ってなお、赤い財布を愛おしそうに撫でていた。「これはあたしの生きる糧。プラダだもん。本物だもん」
 ケイコは手垢でべたつくエナメルの革を指の腹で撫でた。指先にいちいち引っかかる不快な傷。こんなものがあの女を象徴するのだとしたら、案外そこまで的外れでもないのかもしれない。

 アパートの中庭で、ケイコは新聞と紙袋を丸めて火をつけ、そこへ迷いなく赤いプラダを放り投げた。かつて毒々しい輝きを放っていたエナメルはたちまちぐにゃりと融け、みるみる黒く縮んでいく。憎しみもこんな風に燃え尽きてしまえば楽なのに、と思う。
「ママあ、サトちゃんしんじゃったねー」
 どこまで意味がわかっているのか、ナツが手を握ってきた。
「かなしいねー」
 ぽんと投げられた言葉が立ち昇る熱に溶け、じわりと毛穴から内側へ潜り込んでくる。
 炎がぱちんとはじけ、唐突に頭の中で記憶が散った。
 焚き火、初詣、縁日、赤いがま口。
 ああ、あの小さな財布は自分で泣いてねだって買ってもらったのだ。「ママとおそろい」。色が同じというだけで、赤をこよなく愛する母に気に入ってもらおうと。

 もう、赤は見飽きた。
 ケイコは赤いがま口も火の中に放った。そして、ちりりと熱い目尻を指でぬぐうと、娘の手を握り返した。


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