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そらの珊瑚さん

🌼初めての詩集【うず】を上梓しました。  (土曜美術出版販売・現代詩の新鋭シリーズ30) 🌼小説や詩、短歌などを創作しております。 🌼作品を置いています。よろしかったらお立ち寄りくださいませ。 「珊瑚の櫂」http://sanngo.exblog.jp/14233561/ 🌼ツイッター@sangosorano 時々つぶやきます。 🌼詩の季刊誌(年4回発行)「きらる」(太陽書房)に参加しています。私を含めて10人の詩人によるアンソロジー集です。アマゾンでお買い上げいただけます。      ✿御礼✿「馬」のオーナーコンテストにご参加いただきました皆様、ありがとうございました。

性別 女性
将来の夢 星座になること
座右の銘 珊瑚の夢は夜ひらく

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いつか忘れられてゆく運命だとしても

17/10/08 コンテスト(テーマ):第144回 時空モノガタリ文学賞 【 事件 】 コメント:2件 そらの珊瑚 閲覧数:149

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 古いコンクリートの壁はあちこちがひび割れて、中でも二階と三階の間の踊り場の壁に出来た亀裂はとりわけ深く長く、途中で三つの筋に分かれている。それを眺めるたびいつも川みたいだと思う。階段を昇ってきて、座って乱れた息を整えながら、赤ん坊だった娘と私と夫が、文字通り川の字になって寝ていた頃を思い出す。娘の世話に夜も昼もなく明け暮れていた頃、私の願いは思う存分眠りたいという事だけだった。あの頃の私は、それが人生で一番幸せな時間などと、思いを寄せる暇もなかった。

 春日野ニュータウン。昭和四十年代の後半、武蔵野台地に出来た街。新居はその中の十二号棟四〇二号室。スーパーマーケットは三つあり、小さな映画館や幼稚園から中学校までもが敷地内にあったマンモス団地。どこもかしこも新しく、ひび割れなんてひとつもなかった。私も夫も新品みたいに若かった。四階まで休まずに昇れたのだ。
 時間は、なんて残酷なんだろう。
 幸せな時をゆっくり味わう間もなく、それは足早に過ぎてしまった。私と夫は共にもうすぐ八十歳だ。とっくに成人した娘はアメリカ人と結婚し、遠い異国に行ってしまった。三年前に娘夫婦が、十五歳になった孫のマリアを連れて帰った時、もちろん嬉しかったが、ほとんど日本語が離せないマリアに戸惑った。――娘が幸せならそれでいい。そう納得してみたものの、やっぱり寂しい。時間は残酷だ。私に残されたのは、川に似た、このひび割れ。それだっていつまで見られるか。いつまで自分の足で四階を昇り降りが出来るか。昔この団地にエレベーターを設置しようという案があったが、結局、資金面で折り合いが付かず頓挫した。入居者は高齢化し、亡くなったり出ていき、さりとて新しく越してくる人はいない。ゴーストタウンになるのはそう遠くないだろう。夜、灯りが点る部屋は半分、いや、三分の一がせいぜいかもしれない。公園は雑草だらけ、そこで遊ぶ子供を見る事もない。
 よっこらしょ。このまま休んでいたら階段に根が生えそうだ。根が生えたとて花など咲かない。私は重い腰を上げた。
 やっと四階にたどりつき、肩から斜め掛けしたポシェットから鍵を取り出し鍵穴に差し込む。かつて四世帯が入居していた四階だが、昨年お隣の柴田さんが出ていき、私達の他はもう誰もいない。次は私たちの番。

 そして、みんないなくなる。ここで生きていた事を知っている人もいなくなる。

「ただいま」
 玄関で靴を脱ぎ、背負っていたリュックサックを小さなキッチンテーブルに下ろす。一週間に二度、バスに乗って買い出しをするのも、あと何年出来るだろう。夫はリビングのソファに座ってテレビを観ていた。数年前に心臓の病気が見つかり、出かける事がめっきり減った。
「おかえり。外は寒かったろう」夫が私に気づいて、そう云った。
「そうね。でも歩くと案外温かくなるわ」
 今日から四月。春とはいえエアコンで暖房している。石油ストーブは数年前廃棄した。灯油を四階まで運んでくれた業者が廃業してしまったからだ。電気代がかさむが仕方ない。
「今年も桜が見られそうだな」ここから桜並木が見下ろせる。入居した当時は若木だった桜が、今では大木となり、春には一斉に花開く。家に居ながらにいて花見が出来る、そんな春が、春だけが、私達にとって楽しみな季節になった。
「そうですね」
「右から数えて七番目の桜の根元にな、大金を埋めたことがある」
「えっ?」
「三億円をな、埋めたんだよ」
「何ですか、やぶからぼうに。三億円?」
「三億円強奪事件だよ、覚えてるだろ?」
「ええ。犯人が分からないまま時効になった有名な事件ですよね」
 夫は警察官だった。あの事件の捜査にも関わり多忙だったと記憶している。
「あの犯人は俺だ。三億円はジェラルミンケースに入れたまま桜の根元に埋めたんだよ。まだ植えたばかりで柔らかい土を深く掘り返すのは、それほど大変じゃなかった」
 冗談? だけど夫は真面目な性格で普段冗談を云うような人ではない。まさか。
「何で、そんな事を?」
「さあ、何でかなぁ。あんまり昔の事だから忘れちまった」
「じゃあ今度掘り返しに行きますか」
「そうだな、死ぬまでに三億使い切れるか心配だがな」
 三億円事件といえば、当時日本中の人が大騒ぎするほどの大事件だった。それほどの事だって、いつか忘れられてゆく運命なのだ。日めくりカレンダーをふと見ると四月一日。そうか、今日はエイプリルフールだった。嘘? 嘘なら騙されておこう。だってその方が愉快ではないか。あの大事件の犯人が夫、だなんて。
「ねえ、今気付いたけど七番目の桜、他の樹に比べて小さくない?」
「無理もないさ。何しろ根元に三億円が埋まってるんだぞ、そりゃあ窮屈だろうよ」
 久しぶりに二人で笑った。ひび割れを埋めるように。
 時間は残酷だけど、少し優しい。


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このストーリーに関するコメント

17/10/14 泡沫恋歌

そらの珊瑚さま、拝読しました。

なんとなくおじいさんの言ってることが真実のような気がします。

17/10/16 そらの珊瑚

泡沫恋歌さん、ありがとうございます。

どうなんでしょうねえ? 描いた私にもわかりませんが(笑)その方が面白いですね。

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