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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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おおかみかあさん

17/10/07 コンテスト(テーマ):第144回 時空モノガタリ文学賞 【 事件 】 コメント:0件 秋 ひのこ 閲覧数:131

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 大事件、大事件よー。電話の向こうで録音された母の声が跳ねる。
 だいじけんよ、は母の口癖だ。雪が降っても大事件、スーパーで大根が1本50円でも大事件。子供の頃から20年以上聞かされ続け、それが大事だったためしは1度もない。
 ヒロミは二日酔いの頭を抱え、留守電を消した。頼むから用件を言ってくれ、と苛々する。
 e-mailを確認すると、先日応募した会社の不採用通知が届いていた。夫の浮気で半年前に家庭が崩壊。ずっと「休養」していたがようやく働かねばと重い腰を上げた時、ありふれた三十路女の市場価値は豊作の野菜より低くなっていた。
 夕方まで再び眠り、起きると何度か不在着信があり、メールも3通。すべて母からだ。メールの件名は「大事件!」。ヒロミは読まずに「母」というフォルダに移動させる。未読件数が40になった。40の大事件。最近はもう母の事件を聞く余裕すらない。
 深夜、叔母から電話がかかってきた。ちゃきちゃきとした気立ての良い女性で、ヒロミは昔から慕っている。
『もしもし? お母さんから連絡いかなかった? ヒロちゃんと全然連絡つかないって言うから。今どこ? メール読んだ? 何があったかわかってる?』
 ずっと読まずに葬ってきた「大事件」が薄く真実味を帯び、口の中が不快に乾いた。

 父は叔母の電話のすぐ後に病院で息を引き取り、ヒロミは間に合わなかった。
 母は、今朝父が倒れてからずっとメールと電話で知らせようとしていた。それらのメールは、怖くて今も読めずにいる。
 火葬場の中庭で梅の花のぼんやり眺めていると、母がやってきた。
「あれだけ連絡したのに、間に合ったはずなのに、あんたって子は」
 説教。この期に及んで。腹の底がしんと冷える。
「オオカミ少年だよ。普段から大事件大事件て言ってるから、肝心な時に見向きもされない。自業自得」
「自業自得? あなたの話をしてるのよ。あなたがお父さんの死に目に会えなかった」
「それも含めて全部お母さんのせいだって言ってるの!」
 まああ、と母の目が吊り上がる。ヒロミはその顔を睨み返す。
「何でもかんでも大事件て、そんな他人事みたいに言わないでよ。何でいつもその言葉なの。いい加減その口癖なおさないと、周りから馬鹿だと思われるよ」
 母の顔が赤く引きつる。そこへ、準備できたって、と中から叔母が出てきた。父の骨を拾うのだ。

 火葬場から両親の自宅へ戻り、ヒロミは西日が差し込む縁側で足を伸ばした。ここにも、梅が咲いている。
「終わったねえ」
 背後で声がして、よっこいしょと叔母が卓袱台に手をついて腰をおろす。振り返らず、黙って梅を眺めていると、叔母が母によく似た声で言った。
「昔、『大事件です!』っていうネタをやる芸人いたでしょ。あなたのお母さん、あれを真似したのよ」
 母そっくりの丸顔で叔母が西日に目を細める。
「あなたは昔注意力に欠ける子供で、何を言ってもあんまり反応しないし、笑わないし、何より人の話を聞かない子だった。でもあの『大事件です!』の人がテレビに出ると、あなた反応するのよ。だから姉ちゃんは真似したの。そしたらヒロちゃん、振り向いて興味を示すから」
 そんなこと、まったく覚えていなかった。
 そんな芸人がいたことも、ほとんど記憶にない。
 注意力に欠ける。昔から言われてきた。ぼうっとして何を考えているかわからないと。
 でも大人になった今、母の電話に出て、メールを読んでしまうのは、大事件の内容を聞きたいからじゃない。家を出ても結婚しても継続的にこちらに注がれる母の中身のない語りかけを、単純に無視できないからだ。興味ではなく義務。自分の中に母のために使う容量が底なしに設定されてしまっている。たぶん「大事件」というキーワードがなくても、自分はそういう人間だったはずだとヒロミは思う。
「うざいと思うけどさ、つきあってあげな」
 叔母が言うと、台所からばたばたと足音が近づき「大事件、大事件よ!」と母が和室に駆け込んできた。が、ヒロミの顔を見て、あ、という顔をする。
「何」
 不機嫌は隠さず、でもきちんと母の顔を見返す。すると母は安心したように話し出す。あのね、お父さんが先月投稿した詩が夕刊に載ってるの!
 ヒロミは叔母と顔を見合わせる。「まあ、それは大事件かな」「よね」
 見せて、と立ち上がりながら手を伸ばし、ヒロミは言った。
「いっそ本当の大事件の時には別の言葉を使ってよ。緊急事態とか、大ニュースとか」
「それいいね。大事件はこれからも事件じゃない時にね。まぎらわしいけどせめて家族ルールにしなよ。暗号とかでもいいじゃん、カボチャよ! とか」
 叔母がからから笑い、つられて母も笑う。その母に似たヒロミも、気がつけば口角が上がっていた。
 庭から梅の香りをのせてひと筋の風が吹き抜けた。


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