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川淵 紀和さん

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残り湯

17/10/03 コンテスト(テーマ):第144回 時空モノガタリ文学賞 【 事件 】 コメント:0件 川淵 紀和 閲覧数:296

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 一人暮らしを始めて半年、節約のつもりで頼子は翌日追い炊きで済むように、洗浄剤を湯の中に落とした。実家では毎日湯を変えていたので、初めての経験である。入浴剤ほどの迫力はないが、小さな錠剤からぷくぷくと無数のあぶくが湧き出てくるのを面白がって眺めていた。しゃがんでバスタブの縁に顎を乗せ、空気ポンプに集く金魚のような心地でいると、塩素の臭気をわずかに感じた。けれどいやらしさを抱くどころか、なぜか懐かしい。誰かがふわりとたたずんでいるような気配さえしてくるのだった。
 相手は誰であるのかははっきりせず、二日目の湯舟に浸かりながら、頼子は思い出そうとした。次第に日中も頼子の隙を見て、気配は身近に漂うようになっていた。人肌の柔らかなぬくもりを纏わせた匂いである。その人は、嫌気を通り越した先にいた人だとは分かった。当たり前のようにあったものとして、当時と同じように接したいと頼子は思った。積極的に浸ろうとしていた。
 その日も、二日目の湯舟の中で頼子は記憶をまさぐった。狭いユニットバスの浴槽に膨らむ、うまく掴めない愛おしさは彼女を丸ごと包むようだった。ほぐれた体に熱いシャワーを浴びようと立ち上がり、右肩から順に湯を流す。首をゆっくりと一周させながら水しぶきをくぐる。そして、丁寧に二日目の湯の面影に寄り添った。ぶしつけに誰かと切り込まないようにしよう、と頼子は自分とそこに宿る相手を慮った。
 頼子は目を閉じた。一人の少女が見えてきた。

 彼女のジャージの袖口はいつも汗染みで黄ばんでいた。その先のビル細く長い指を、頼子は束ねて握るのが好きだった。
ある時は体育館で、健やかに育った長身の彼女を追いかけた。バスケットの試合のさなか、頼子は敵として彼女を追っていた。背中は心もとなくなるほど痩せていて、後頭部に縛り上げた一束の豊かなポニーテールが、毛先を散らしながら激しく揺れていた。ボールのことも勝敗のことも置き去りにしながら、ハーフコートの中で斜めに飛ぶように走る彼女に瞳を奪われていた。
 わらわらと何人もの人が、その懐めがけて腕を伸ばしたが、彼女の速さは周囲の人達とはまるで違った。群がる誰もがティッシュペーパーのようにひらひらと揺れる人影に見えて、彼女はその隙間を打ち抜く弾丸だった。何かに煽られることを知らない一筋の弾丸は、今度はその意思を宿したボールを、指先から放った。ボールはまっすぐにかごに飛び込んだ後、フローリングの床を激しく何度も叩いた。あまりに美しく館内に響いて、ホイッスルさえ一瞬遅れたように感じるのだった。完璧だった。しかしもっといい加減でよかったはずのゲームが、彼女によって色を変えられてしまったことで空気が変わり、その緊張感に頼子は身震いをした。
 完璧にはなれない自らの危うさを、彼女の美しい成績はあまりにもあっさりと切り捨てる。今度は慢心した弱い心の群れが、彼女を容赦なく襲うのだった。それでも彼女は、指先から何本ものシュートを放ち、かごを揺らしてボールに床を叩かせた。
 最後に彼女の身体から漂ったのは、この匂いではなかった。とても低い温度で溶かされた金属のような、血液のにおいがした。その日は雨が降っていて、彼女の過ちを神様がごまかそうとしているように頼子には思えた。次第に強くなる雨脚は、彼女をバラバラと踏みつけ、死の臭気を土の匂いにごまかしていく。けれど嵐のように彼女が病院に搬送された後も、彼女の残した赤はまるで色味を失わず、いつまでもアスファルトの上で訴えかけるように燃えていた。彼女の喪失感や悲しみを感じるよりも、生への執念を見せつけられたようで、頼子は青いビニールシート越しに彼女を囲む人だかりにもまた、内側にあの色を秘めていることを、にわかに悟って慄いた。頼子は彼女をゆるす代わりに、夏の終わりの雨を恨んだ。

「吉崎夏希」
 そう強く意識したのか、唇が唱えていたのか。はっきりとしないまま、頼子は瞼を押し上げた。今の頼子は冷静だった。まだ彼女が無機物になる前の、もう一つの匂いが記憶の片隅でこんなにも愛おしく残っていたことを静かに驚いた。匂いは気配を失って、頼子を打つ水しぶきは、優しく温かかった。彼女を美しい物語にしてしまうほどに、自分の手に入れた安らぎを寂しく思った。


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