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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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記者のわきまえ

17/09/22 コンテスト(テーマ):第144回 時空モノガタリ文学賞 【 事件 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:146

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 女性記者の、社内でも評判の美人、マナミにむかって編集長は、
「いいか、トイレの屁は事件にならないんだぞ」
 と、まくしたてた。地方の新聞社に勤務して一年目、まだろくな記事しか書けない彼女を、これでも叱咤激励しているのだ。
「トイレの屁は、事件にもニュースにもならない」
 なるほど、トイレイコール屁は、あたりまえといえばあたりまえだ。珍しくもなんともない。するとじぶんはこれまで、トイレの屁のような記事ばかり書いてきたのだろうか。
 それからというものマナミは、どんな事件を記事にするにしろ、つねに編集長のこの言葉と照らし合わすようになった。 そして、ああ、これはトイレの屁だ、これはちょっぴりそうじゃないみたいと、判断の目安とするようになっていた。
 この一件があってからというものマナミは、これまでは全く気にしたことさえなかった『屁』というものに、なんとなく関心を抱くようになった。体内に発生した気体、ガスを体外に放出するありふれた生理現象のひとつだ。さすがに下のことだけに、『屁のツッパリにもならない』や『屁理屈』などと、およそろくなものにしかたとえられない。
 マナミは以前、とあるレストランのなかで、横のテーブルに一人座ったどこの貴婦人かと見紛うような、それは麗しいご婦人が、音をたてて放屁した現場にいあわせたことがあった。いっしょにいた同僚も、たしかにいまの音を耳にした。一瞬、顔をみかわしてふたり、どうしようかとうろたえたとき、当のご婦人がいとも平然と、
「あら、でちゃった」
 と、その清々しいまでの口調に、むしろすくわれたのはマナミたちのほうで、こちらも明るい笑顔でそれに答えることができたのだった。わざとらしく無視をきめこんだりしたら、いつか我慢に限界がきて、反動から衝動的に笑いだしたらさいご、その場は収集がつかなくなっていたことだろう。
 まさに『屁』は、とるにたらないものであり、編集長の言葉どおり、ニュースにも事件にもならないものなのだ。
 ―――ところが、である。
 マナミが取材でとあるデパートに訪れたときだった。シルクよりまだ軽くて丈夫な繊維でできた、大流行の兆しをみせている衣類を販売しているときき、いさんでやってきたのはよかったが、緊張のあまりきゅうに腹がきりきり痛みだした。こんなときにと、毒づきながらトイレにかけこんだ。出るものがでてしまうと、気分も爽快になって、いざ出陣とたちあがりかけたとき、隣りのトイレから突然、ベートベンの『歓喜の歌』のあの、いちばんさわりの部分がきこえてきた。それは2回くりかえされて、鳴りやんだ。
 しばらくのあいだマナミの耳には、いまきいたベートーベンが、大オーケストラによる演奏よりもさらなる迫力をもって鳴り響いていた。
 マナミは、隣りのトイレのドアが開くのをまって、じぶんも出た。
 30前後の女性で、買い物にでもきた客かもしれない。
「あの」
 マナミの声に、女性はふりかえった。
「はい」
「いまのベートーベンは………」
 相手は、ばつのわるそうな顔になって、、
「ごめんなさい。だれもいないとばかり思っていたので」
 マナミは身分を告げてから、
「とても、すてきでしたわ。ところで、いまのは………」
 そのといかけに、相手は化けの皮を剥がれた妖怪か何かのように神妙な顔つきになって、いっしょにきなさいとマナミを、トイレの外の休憩用の椅子につれていき、ならんで座ると、つぎのような話をはじめた。

 物心ついたころ、自分が他の子供たちにくらべ、ひじょうに腹にガスがたまりやすい体質であることに気づいた。なんにも頓着しないときだから、当時は誰もが平気で放屁をしたが、その長さがまた異常にロングだったので、あからさまにみんなは笑った。それがトラウマになって彼女は、成長するにつれて腹がガスでマックス状態になるとすみやかにトイレにはしり、かぎりなく慎重に時間をかけて放屁するようになった。笛の音のようにかろやかな音がした。筋肉の微妙なしめぐあいによって音に微妙な変化がつくのがわかり、いろいろためしたあげくとうとう、音階をつけることに成功した。最初は童謡のような簡単なメロディーからはじめて、訓練するにつけて歌謡曲、ポップス、ついにはクラシックにまで範囲がひろがった。

「ベートーベンは苦労したけど、いかがだったかしら」
「全曲ききたいぐらい、すばらしかったです。このこと、記事にさせていただいて、いいでしょうか。それが無理ならぜひ、うちの編集長にその、すばらしい名曲をきかせてやってください」
 後日の再会を約束するとナオミは、はやる心にかられて自社にむかった。
「編集長、トイレの屁は、事件になりますよ」
 それがいいたい一心で。




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