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吉岡 幸一さん

性別 男性
将来の夢
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蜂蜜の朝に濡れる

17/09/18 コンテスト(テーマ):第144回 時空モノガタリ文学賞 【 事件 】 コメント:0件 吉岡 幸一 閲覧数:154

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「蜂蜜がなくなっているの。昨日デパートで買ってきたでしょう。今朝、パンにつけて食べようと思って棚を開けたらないのよ」
 妻は冷蔵庫や棚やテーブルの上を探りながらテレビを見ている夫に言った。
「俺は別にジャムでもいいよ。苺ジャムなら冷蔵庫に入っているだろう」
「たしか寝る前はテーブルの上にあったと思うんだけど……」
 よほど気になるのか四つん這いになった妻は、キッチン下の棚から油や調味料を取りだしながら奥のほうまで探している。
「蜂蜜なんてなくなったってかまわないだろう。また買えばいいんだし」
「有ったものがなくなったから気になるのよ。ねえ、これは事件よ! 夜まであった蜂蜜が朝になったらなくなっていたなんて。泥棒でも入ってたら……」
 泥棒ではないだろう。ここは十階建てのマンションの五階で、全ての窓は寝る前に鍵をかけた。朝起きても部屋は寝る前と同じでよく片付いていてテッシュ一枚動いた形跡もなかったのだから。
 妻も本気で泥棒が入ったとは思っていないようだった。財布や通帳の入った棚を開くことはなかったし、鍵の確認をするようなこともなかった。
 蜂蜜は片手で握れるくらいの透明な瓶に入っていた。瓶には生産者の名前の入ったラベルが貼られていたので希少品なのかもしれないが、なくなって困るものでもないし誰かからの贈り物というわけでもなかった。
「もう諦めて一緒に朝食をとろうよ」
「先に食べて」
 見つからないことに納得がいかないのか、妻は棚からだしたものを仕舞うことなくひとつひとつ床に並べている。床は食器や調理器具などで埋まっていき、まるで引っ越しの準備でもしているようだった。
「いいかげんにしたらどうだ。蜂蜜なんて、ほっといてもそのうちみつかるよ」
 散らかっていく床を眺めながら夫はイライラしてきて、つい強い口調で言ってしまった。
「あなたがどこかに隠したんじゃないの。意地悪をしたんでしょう。この間、古くなった靴下を勝手に捨てたのを根に持っているのね」
「おい、俺の靴下を勝手に捨てたのか」
 思わず立ち上がった夫は拳を握りしめたが、すぐに首を振って座りなおした。
「いつだってそう、あなたは私のことなんか愛してくれないのね」
 夫が怒りを無理やり抑えたのを敏感に感じ取った妻は、床に置いた包丁をつかんで立ち上がった。
「子供ができないからって、私のせいじゃないんだからね」
「なにも今、子供のことなんか言ってないだろう」
 妻は突然泣きだした。包丁を手にしたまま俯いている。
 結婚して十年、妻には苦労をかけてきた。勤めていた会社が倒産し、起業したデザイン会社に失敗し、ようやく探した就職先は給与が安く夫だけの給与では食べていけなかった。子供に恵まれなかったことを気にしていた妻は一時期心を病んだこともあった。今は妻の心も落ち着き、共働きでどうにか人並みの生活が送れている。
「なあ、蜂蜜なんて最初からなかったんじゃないか。そうだ、蜂蜜なんて買っていなかったんだよ。買い忘れたんだ」
 妻は両手で包丁を握ると自らの首に突き立てた。
「もういや、嫌なの。私は蜂蜜ひとつ満足に仕舞っておくことができないポンコツなの」
「おい、やめろ」
 椅子を引いて再び夫が立ち上がると、椅子の脚に何か硬い物があたる音がした。ゆっくりと瓶が転がっていく。蜂蜜の入った瓶だった。
 妻の手は止まり、夫の足も止まる。瓶は妻の足先まで転がっていった。足先にあたると瓶の蓋があいた。開いた蓋の中からどろりとした蜂蜜が流れでてくる。黄色く艶やかな蜂蜜、甘い香りが部屋中を満たしていく。
「なんだ、あったじゃないか」
 近寄った夫は床に溢れた蜂蜜を踏んで倒れた。倒れるときに思わずスカートを掴んでしまったので、妻は包丁を握ったまま床に尻餅をついてしまった。そして床にこぼれていた蜂蜜のせいで勢いよく尻を滑らせ仰向けになった。包丁は妻の手を離れ腰の横の床に真っ直ぐに突き刺さった。
 妻の体の上には夫がいて互いの顔と顔が目の前にあった。夫の鼻には蜂蜜がついていて妻の頬にも蜂蜜がついていた。
 夫が妻の頬についた蜂蜜を舐めると、妻も夫の鼻についた蜂蜜を舐めた。それは互いに無意識の行為だった。指についた蜂蜜を交互に舐め合い、舐めとった指にさらにこぼれた蜂蜜を絡ませ互いの口のなかに突っ込んだ。甘い蜜、肌はべとべととしていたが二人はいつまでも床にひろがった蜂蜜を指に絡み付かせては互いの口に入れた。舌は指を舐め、指は舌と戯れた。
「蜂蜜が見つかって良かった」
 妻は服や髪の毛を蜂蜜だらけにしながらきつく夫を抱きしめた。
「お前の機嫌がなおってよかったよ」
 夫は微笑み、床に突き刺さる包丁を見つめながら蜂蜜に濡れた唇を妻に近づけていった。
 朝の光りがレエスのカーテンを黄金色に染め、こぼれた蜂蜜の瓶を輝かせていた。


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