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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。
性別 | 女性 |
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将来の夢 | |
座右の銘 |
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帰宅してトイレに入ると、洗浄剤の香りがふわりと鼻先をかすめた。
便座の蓋が閉っている。床に落ちていた髪の毛と埃がなくなっている。
台所へ進むと、薄明かりのもとで夫のハヤトがひとりビールをあけていた。
惣菜の容器と菓子袋の下に散らばる請求書やチラシと等しくぞんざいに置かれた離婚届が白紙のままであることを横目で確認し、スミレは自分の分の弁当を袋から取り出す。
「食べてこなかったのかよ」
かけられた声がやけにはっきりと部屋に響く。そういえば、テレビがついていない。
「たけのこ弁当が食べたかったの」
近所の弁当屋の春限定メニュー。たけのこごはんに山菜の天ぷら、エビフライだけは取り出してトースターに入れた。
ハヤトは毎月定期購読している科学雑誌をぱらぱらと見ていた。もう一年近く袋を開けもせず放置していただけの代物。何度解約を促しても「するする」と言うだけで、雑誌は届き続けた。
「今日解約したらさ、なんか急に読みたくなって」
へへと笑い、袋から出した一年分の雑誌をぽんと叩く。
「トイレ、掃除した?」
「した」
トイレの蓋閉めてって言ってるでしょ。閉めるよ、閉める。私が家事を全部やるからあなたはトイレ掃除、それだけでいいって言ってるのに。やるよ、やるから。
一体何のつもりだろう。最後の最後で罪滅ぼしか。スミレはハヤトの目の前でたけのこをかじりながら木星の写真を眺める夫を見つめた。ハヤトがつぶやく。
「歯医者、予約してきた。来週の水曜、7時」
痛いんなら歯医者行かなきゃ。行くよ、行く。
「あと、もう遅いかもしれないけど味噌、買ってきた」
スミレは思わず吹き出した。「どうしたの、突然」
ハヤトがきょとんと見返してくる。
有言不実行、口先男、約束破り。スミレが離婚したい理由にハヤトは猛反発した。俺はそんなつもりないのに、勝手になんでもかんでも約束にされても困る。約束ってもっと重いじゃん。味噌買ってくるの忘れただけで約束破りよばわりされても。
一方的に言い渡された離婚。あの時の怒りが蘇り、ハヤトは口を尖らせた。
「俺も色々約束破ったかもしれないけどさあ、お前だって最後にすごいの破ったじゃん。病める時も健やかなる時もって誓い。あれ、一生モンの約束でしょ」
心外だ、というようにスミレが眉を少し上げ、それから白紙の離婚届を一瞥して深く息を吐く。
「厳密には、まだ完全に破ったわけじゃなかった」
「わかってる」
ハヤトはテーブルの上に散る生命保険の受領書類に目をやる。その下には、弁護士経由で加害者から届いた謝罪の手紙。
「そっちで待っててって言ったら約束してくれるか?」
半ば本気で、言ってみる。スミレはほろりと笑った。
「しない。あなたは言うだけ言って放置する人だから。死んだ後まで真に受けて縛られるなんて真っ平」
ハヤトは一緒に笑おうとしたが頬がうまく上がらない。
「あなたに約束を求めるのは無駄だってわかってるけど、でも約束して。いつか新しい人を見つけて、なるべく有言実行を心がけて、***……」
スミレは黒い瞳をひたとハヤトに据え、諭すように訴えた。その声が聞こえない。
え? と聞き返した瞬間、チン、と甲高い音が響く。
トースターだ。弁当のエビフライ。揚げ物に電子レンジを使わないのは、スミレのやり方。いつの間にか、真似するようになった。
目の前のたけのこ弁当は、エビフライの場所だけぽっかり空いている。
ふと見ると、目の前の席も、ぽっかり空いていた。
ハヤトは頭を掻き、居間にしつらえた仏壇代わりの祭壇を見やる。花のように微笑むその遺影を見た途端、唐突に思い出した。
「あ、絨毯買い換えるって言ってたんだっけ。あれもやらなきゃな」
誰もいない部屋で返事はない。それから、じゃないや、とかぶりを振った。
「買ってから報告しろって話だな。うん」
やらないことをやるって言わないで。できない約束をしないで。口先ばっかり、もううんざり。
あの喧嘩が、スミレと交わした最後の会話だ。離婚するしないで、あの日も朝から揉めていた。
あの後スミレは怒って家を飛び出し、そのまま帰ってこなかった。脇見運転の信号無視。彼女は、怒り狂っていてもきっちりと青信号を渡っていた。
不思議なもので、スミレがいなくなってしまって以来、次から次へと自分が吐いてきた言葉を思い出す。やると言ってやらなかった山ほどの口約束。
「日曜は家具屋に行って絨毯を買う。自転車のパンクも直して、あとなんだ、来月の草抜き! 絶対行くから」
スミレに聞こえないよう、ハヤトは小声でぶつぶつ言いながら指を折る。どうだ、やったぞ、口先だけじゃないぞ、と報告する自分を想像すると、ほんの少し胸の痛みが和らぐ。それを「まだでしょ」と制するように、たけのこの苦味が舌先を突いた。