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井川林檎さん

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一刻の猶予も

17/09/12 コンテスト(テーマ):第144回 時空モノガタリ文学賞 【 事件 】 コメント:0件 井川林檎 閲覧数:228

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 修羅の道をゆく者は、死ぬことを恐れない。
 
 今、彼の宿泊する寺は敵に囲まれており、逃げることは叶わない。
 信長はどこだ、と怒鳴る声と激しい物音が響いてくる。
 ぎゃっ、という、斬り捨てられた者の悲鳴が聞こえた。

 まさに今、歴史を変える事件が起きている。

 襖を開いて蒼白の美少年が暗い部屋の中に進み出る。
 森蘭丸。彼もまた、死を恐れてはいない。

 今、この寺を襲撃する敵は、本来味方だった。まさかの裏切りに遭い、勝利の一歩手前で死ぬことになろうとは。

 蘭丸がけげんそうにしている理由はしかし、この椿事のためではない。
 いかなる修羅場でも動じたことのない彼が、妙な様子を見せているからだ。
 彼は、がくぶると震えており、白い寝間着の中で内腿をもぞもぞと擦り合わせ、若干前かがみの姿勢だ。闇の中で見開いた目は血走っており、唇は土色だ。

 「殿」
 蘭丸が呼びかけた時、彼は唇をかんだ。
 
 「俺と共に死ぬのであろうな」

 はい、無論でございますと答えた。
 声はいつもの彼である。
 だけど、どういうわけか、寝間着の中で内腿をもぞもぞさせ、時々「おおっ」と言いながら体をよじっては、冷や汗を浮かべているのだった。

 彼は既に脇差を抜こうとしているのだが、その寸前にまた悶絶した。
 蘭丸は、主君の様子を見守ることにする。

 信長はどこだ、討ち取ってくれる、という声が右から左から迫ってくる。
 ひゅんひゅんという矢の音まで聞こえてきた。


 「……厠へ」
 言いかけた彼は、いやいやいやいやと首を振り、また悩むような仕草をした。
 そうしている間も脂汗は彼の細面を流れ伝い、顎から膝の上へぽたぽたと落ちる。

 ああ――蘭丸は察したのだった。彼と長い年月を共に過ごした蘭丸には分かる。信長は腹が弱かった。また、急性の下痢に襲われているのだろう。今すぐ厠に駆け込みたいのだが、いかんせん、すぐそこまで敵が迫っている。

 様々な意味で、一刻の猶予もない状態だ。
 
 「……樋箱 を持て」

 ついに彼は言った。
 では、と蘭丸が立ち上がりかけた時、いやいや待てと、彼は引き留めた。
 
 信長臆したか、出て来い、とかなり近いところから声が聞こえてくる。
 
 彼の目は充血のあまり、ほとんど真っ赤だ。
 その様は地獄から出て来たような迫力と不気味さがあったが、今彼の頭の中は、天下への執念や、裏切者への憎悪より、耐えがたい便意が占めているのだった。

 ああ、出る出る出る今にも出る一刻の猶予もない……。

 「殿」

 すらっと脇差を抜きながら、蘭丸は静かに言った。
 「いっそのこと、今ここで腹をお切りになっては。さすれば体の苦しみからは解放されまする」

 青ざめていた彼は一瞬はっとしたが、いやいやと首を振った。充血した目が険しい光を放ち、あの恐ろしい信長の魂が今こそ燃え上がるようである。

 「たわけ」

 低いが、聞く者の心を震え上がらせるような声で彼は言った。
 「今ここで腹を切った瞬間、体に入った力が全て抜ける。そうであろう」

 ええまあ、死ぬのですから力は抜けますね。
 蘭丸は静かに答える。

 くそったれ――敵の罵声が聞こえる。信長のくそったれ。くそったれええええ。
 
 ばたばた、どかどかという物音は、そこまで近づいている。
 ぐびゅっ、びるびるびる――変な音が聞こえてくる。彼の下腹が悲鳴をあげた。
 寝間着の肩がぐっとしゃちほこばる。ありったけの気合を、彼は入れたのだった。

 「蘭丸、俺はひる」
 彼は言った。は、と、蘭丸は問い返した。

 もう猶予はない。俺はひり尽くす。もはや抗えぬ。頑是ない赤子のように俺はひる。ひり捨ての事実を置き去りに、俺は冥途にたつ。……ただ。

 彼のまなこは金に光るようである。それは般若の顔だった。

 「断じてこの事実を、知られてはならぬ。わかるな、蘭」

 わかります信長様。あなたこそ天下人。その方が、あろうことかうんこ垂れて死ぬなど、あってはならぬこと。この蘭丸、よく理解してございます。

 
 信長、この臆病者、出て来い。
 
 森蘭丸は微笑んだ。
 信長は頷き、蘭丸は立ち上がる。
 蘭丸は屏風の奥にあった灯を手に歩み出ると、まるで花でも手向けるように、障子にそっと、火をつけたのだった。

 彼岸花が咲き誇るかのように火は燃え移り、飛び移り、見る見るうちに部屋は火の海となり――その火の海の中で、彼はこの世で最後の願望を思う存分満たしたのだった。ぶりゅっ、びるびるびる。
 激しい臭気すら炎は燃やし尽くしてくれることだろう。

 やがて彼はしゃがんでいた場所から立ち上がると、まだ炎に埋められていない場所に座り、おもむろに脇差を抜いた。
 
 「蘭丸、参るぞ」


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