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雪見文鳥さん

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北野さんがいたころ

17/08/28 コンテスト(テーマ):第142回 時空モノガタリ文学賞 【 上司 】 コメント:1件 雪見文鳥 閲覧数:118

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 先生になる上で一番大切な事を、私はあの頃教わった。

 個人面談当日、真向かいに座った男の子は、既に相当ふてくされていた。足を机の下で無造作に投げだし、左手でボールペンを器用にくるくると回している。
「先生は、俺が落ちこぼれだって思ってんだろ」
 模試の結果を睨みつけながら、ため息交じりに吐き出された言葉。彼の姿が、あの頃の自分と重なった。


 社会人1年目、塾講師になった私は、なんとなく職場に馴染めていなかった。親しい同僚は一人もいなくて、必要な時以外はいつもひとりで過ごしていた。
 私はどうやら少しだけ変わっているらしい。普通にしているつもりでも、気づけば他の人と少しずれてしまう。普通の人が普通に気づくことに私だけ気づけなかったり、反対に普通の人が気づけないことに私だけ気づいたりしていた。
 そんな私にはひとつだけ宝物があった。水色の表紙の、小さなメモ帳だ。
 歴史が大好きな私は、本を読んで、テレビを見て、歴史に関してなにか面白い事を発見するたびに、その小さなメモ帳に書きとめていた。
「徳川家康の遺訓『人の一生は重荷を負うて、遠き道をゆくが如し』」
「小栗上野介忠順が日本初の株式会社をつくった」
 歴史を勉強している間は、ひとりぼっちだけど、寂しいとは思わなかった。周りの人たちが私の世界からすっぱりと切り離され自由でいられた。

 そんな私のことを唯一理解してくれたのが、私の上司であり、社会科の先生の北野さんだった。
 北野さんは、全く見た目に頓着しない人だった。腰まであるぼさぼさの髪を、赤いゴムでひとつにまとめていた。なのに教え方はとても上手で、いつも生徒から慕われていた。
 初めて北野さんに会った時、私は驚いた。というのも、上司とは、もっと怖くてガミガミ怒鳴る生き物だと思いこんでいたから。
「随分勉強しているんだね」
 私のメモ帳を覗き込んで、北野さんが言った。ひとりぼっちで勉強している姿を見られたことが少し恥ずかしかった。
「歴史は、人がどう生きたかの証明であり、古今東西の知恵の結晶でもあるの。こんな素晴らしいものが、この小さなメモ帳の中におさまっていくのは、素敵なことよね」
 北野さんの言葉が、胸の奥にするりと落ちていった。ささやかな努力が、ほんのすこし報われた気がした。


 仕事にも慣れてきた10月、事件が起きた。
 授業を終え、デスクに戻ってみると、机の上に置いていたはずのメモ帳が消えていた。同僚2人が私のことをにやにやとしながら見ている。前にもこの人たちから嫌がらせを受けたことがあった。気持ち悪さをこらえながら、私は彼らに問うた。
「私のメモ帳知らない?」
 その言葉に、同僚の口元がさらに吊りあがった。
「捨てといたよ」
 瞬間私を襲ったのは、悲しさでも怒りでもなく恐ろしさだった。皆に嫌われても、ひとりぼっちになっても、ささやかな幸せをかき集め、それなりに楽しく生きてこられたのは、あのメモ帳があったからだ。あのメモ帳を失くした私は、どうやって生きていったらいいのかわからない。
 慌ててゴミ箱をあさったが、遂にメモ帳は見つからなかった。暗闇に放り出されたような気がした。


 北野さんは、私の上司であり、同じ科目を教える同士であったが、それ以上に私のよき理解者だった。
 ――喋りたくなかったら喋らなくていいんだよ。
 退屈な飲み会の帰り道、北野さんはそう言った。
 ――私はね、ひとと話をするのも好きだけど、それ以上に、頭の中にいる自分自身と会話するのが大好きな人を、他にも知っているんだ。
「誰ですか?」
 ――私だよ。
 あの時の北野さんの笑顔は、今でも頭の奥に焼きついている。
だから、あのメモ帳を失うということがどういうことなのか、私以上に理解してくれていた。
 後に伝え聞いた事だが、北野さんはあの後、私の同僚に対して相当怒ったらしい。そして、私の代わりにメモ帳を探し、見つけてくれたのだ。
 事件翌日、差し出されたメモ帳を見て、私は驚いた。
「どこで、これを見つけたんですか?」
 北野さんは、それには答えなかった。
「大切なものなのでしょう?」
 その一言で十分だった。私は泣いた。歴史という、古今東西の知恵の結晶が、私たちの宝物が、今私の手に戻ってきたのだ。


「先生は、俺が落ちこぼれだって思ってんだろ」
 彼の言葉を、やんわりと、けれどはっきりと否定した。
「思ってないよ」
 教師の役割と上司の役割は、もしかしたら少し似ているかもしれない。どんな人にだって、ひとつくらいは何か良いところがある。それに気づく人がいなければ、結局その人は死んでしまう。
 私にはかつて、そういう人がいた。誰も気づかなかった私の良さを、そっと拾い上げ、慈しむように撫でてくれた人がいた。
 この人にとって私も、そうでありたい。


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このストーリーに関するコメント

17/09/09 トツナン

拝読しました。
「なんとなく職場に馴染めていなかった」、「どうやら少しだけ変わっているらしい」と自認する主人公「私」に対して、北野さんはどのような思いで接していたのだろうと想像しました。教師が生徒に接するのと違い、上下関係こそあれ職場の同僚に踏み込んで接するのは、何かしらの背景あってのことなのでしょう。また、塾講師たる「私」が模試の結果以外でどんな風にして、誰も気づかなかった「彼」の良さを見出していくのかとても気になりました。

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