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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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そこにしか、見えない

17/08/25 コンテスト(テーマ):第141回 時空モノガタリ文学賞 【 黒板 】 コメント:6件 秋 ひのこ 閲覧数:408

時空モノガタリからの選評

うつ病で喋らなくなってしまった夫と、なんとかしてコミュニケーションを取ろうとする「私」。人間の心が病んだ時、それを回復するのはなかなか大変なのでしょうね。今は「言葉を引っ張り出せる媒体のようなもの」としての黒板に数式を書く行為に浸りきることが、彼には必要なのでしょう。とはいえ妻である「私」にとって、自分の努力が「異物」と捉えられたことはショックですよね。この作品のメッセージとはちょっとズレるかもしれませんが、ホワイトボードと黒板との違いについてです。黒板への板書はホワイトボードとは違い、手にダイレクトに圧や衝撃が伝わります。個人的には、思考が身体性と切り離されて独り歩きした時、人間の心は病むのではないかと思っているので、テラさんが「カカカカ」という音とともに、指先に圧を感じつつ数式を書き続ける行為は、思考と身体性を繋ぐため、ひいては心を回復するために必要なのかなあと想像しました。この先どうなるのかは敢えて示されないのですが、新品のチョークがなくなる頃には、妻である「私」との関係性を再構築がなされることが暗示されていると感じました。

時空モノガタリK

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 夫のテラさんがうつ病になった。
 先の見えない休職よりヒキコモリより何より困るのは、喋らなくなってしまったこと。
 ぞっとするほど表情が乏しくなってしまったので、せめて言葉で説明してほしいことが山程ある。おいしいか、おいしくないか、冷たいのと熱いの、どっちがいいか、お義母さんが正月はどうするか聞いてるけど、どうしたいか。
 知り合いの提案で筆談も試してみたが、うまくいかなかった。テラさんは字すら、書けなくなっていたのだ。まるで身体の中から言葉というものがあらゆる次元で消えてしまったかのように。

 ある日、パートから戻るとテラさんの書斎の前に巨大な平たい段ボールが置かれていた。発泡スチロールやぷちぷちもごっそり散らばっている。
 たまにテラさんはネットで本やらパソコン部品やらを注文する。大抵私が留守の平日昼間に届き、自分で玄関まで出向き受け取っているようだ。
 それにしても今回のものは大きい。一体何を買ったのか。聞いたところで答えが返ってこないことに慣れ、諦めがまたひとつ体内に積もる。
 片づけようとしたとき、部屋の中からカカカカカ、という小気味良い音が聞こえてきた。この音、どこかで聞き覚えがある。考えながら、あ、夕食作らなきゃ、とぷちぷちを丸めて抱え台所に向かう。

 その日以降、テラさんの書斎からひたすらあの「カカカカカ」が聞こえるようになった。加えて、テラさんが触れる箸や茶碗、ドアノブに何やら白っぽい粉がつき始めた。
 私はテラさんが風呂に入っている間に、こっそり部屋を覗いてみる。
 それが何かうすうす勘づいていたとはいえ、実際に現物を狭い八畳間で目にするとぎょっとした。
 塾や会議室で使うようなキャスターつきの黒板がどんと部屋の中央に鎮座している。驚いたのはそれだけではない。黒板はテラさんの几帳面で美しい楷書体のような文字で端から端までびっしりと埋まっていた。
 筆談を試みた時、テラさんは右利きの人が左手で書くよりひどい文字しか書けなかった。それなのに、数式なら書けるのか? 足元や机にメモ書きやノートが散らばっている。見るとそれらはやはり、あの時と同じ解読不可能な文字だった。
 私は黒板を見上げる。
 テラさんは高校教師であり、数学者。黒板と毎日対峙していた。
 うつで壊れてしまったテラさんの中で、言葉を引っ張り出せる媒体のようなものがこれなのだろうか。
 胸があわ立つ。
 この黒板の字は、以前のテラさんそのものだ。静穏な自信に満ち、折り目正しい。
 気がつけば私はチョークを手にしていた。黒板の左下の隅っこにほんの少し場所がある。

 翌日、テラさんが風呂に入るのを待って私は急いで書斎に走った。
 ドアを開け隙間から覗き込むと、黒板の左下に私の字がまだ残っていた。
『良いものを手にいれましたね』
 そして、その側に数式とは別のひと言が。
『はい』
 言葉が、通じた、と思った。
 私はそれらを消し、再び書いた。
『あなたがこの黒板を見つけて、嬉しいです』
 翌日見に行くと、部屋には鍵がかかっていた。
 
 ショックだった。
 テラさんは部屋に入られたくなかったのだ。言えばいいのに。言えないなら、書けば良かったのに。やっと夫婦の意思伝達に突破口が開けたと思ったのに。
 悔しさで泣けてくる。だから思わず、朝食を食べているテラさんに向かい吐いた。
「あの部屋、元々鍵つきだけど鍵は使わないってルール決めたの、覚えてる? 夫婦で見せないのは心と頭の中だけでいいって、あなたが言ったよね。勝手にルール変更できるなんて知らなかったな。病気を盾になんでもありってこと? 自由でいいよね」
 困惑、怒り、反論、どんな感情も返ってこない。
「なんとか言えば?」
 そんなつもりはなかったが震えた声は暴力的に響いた。
 咄嗟に後悔したが、そこには粉だらけの指でもそもそと機械的に食べ物を口へ運ぶ人がいるだけだった。

 自己嫌悪と憤りにまみれて仕事に行き、まみれたまま帰宅する。玄関を開けると、カタン、と何かがぶつかる音がした。
 見ると内側に回覧板のような板がぶらさがっている。百均で売ってそうな木枠のついた薄い黒板だった。そこに書かれた美しい楷書体を見て息が止まる。
『これで勘弁してください。僕の数式に異物が入ると困るのです。テラノブ』
 身体中の力が抜け、その場に膝をついた。抜けたものが口から出てきそうになり掌で口を覆う。
 何故、鍵をかけて私を締め出したのかの答えと、妥協案の提示。謝罪(たぶん)。
 口を塞いだので、目から感情が染み出てきた。
 見えないのは心と頭の中だけでいい。それは言葉で補えるからでしょう。私はただずっと、話したかったんだよ、テラさん。
 下駄箱の上に、新品のチョークの箱が置かれていた。


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このストーリーに関するコメント

17/08/29 沓屋南実

心に響くお話でした。

テラさんが、テラさんらしくあるためには、黒板が必要。
うつ病経験者が家族にいても、回復の過程はよく知りません。
しかしながら、テラさんが黒板を注文したのは、回復に向かっている証拠のように感じられました。
主人公の辛さと優しさにも、共感いたします。

好きな展開で、最後まで楽しく読ませていただきました。

17/09/06 秋 ひのこ

沓屋南実さま
こんにちは。この度はコメントを頂き、ありがとうございます。
返信が遅くなり申し訳ありません!
仰る通り、テラさんが黒板を自ら注文したことで、まさに回復の兆し、希望を表したかったのです。
……という主人公の「気付き」を本当は書き込んでいたのですが、2000文字をはみ出してしまい削ってしまいました。
にもかかわらず汲み取っていただいてとても嬉しいです。
ありがとうございます!

17/09/12 むねすけ

読ませていただきました

心が揺さぶられる展開の先にホッと胸に広がるぬくもりがあって、読後目に涙が溜まりました

17/09/12 秋 ひのこ

むねすけさま
こんにちは、コメントをありがとうございます!
うつ病の現実と比べるとちょっと都合が良過ぎるかもしれませんが、長い闘病生活についに訪れた「奇跡」の部分を2000字で切り取ったようなイメージで書きました。
むねすけさまの感想に私の方が感動いたしました。ありがとうございます。

17/10/06 光石七

入賞おめでとうございます!
遅ればせながら拝読しました。
自分から何かしたいと思い行動するのは回復への第一歩、でも自分のペース・やり方を乱されると困惑・後退してしまう。うつ病経験者としてテラさんの気持ちがわかる気がします。
でも、主人公が突破口が開けたとつい喜んでしまうのも、主人公の寂しさや辛さも無理はないし、家族の優しさと苦労を改めて思いました。 
この後、玄関の小さな黒板でのやりとりが始まり、いずれは以前のような夫婦の会話もできるようになるのでしょう。本来お互いを思いやれるこの夫婦なら、乗り越えられると思います。
素晴らしい作品でした!

17/10/07 秋 ひのこ

光石七さま
こんにちは!
現実的にはうつ病患者とのつきあいは美しい思いやりだけでは続かないかもしれませんが、物語、しかも2000文字の世界なので、回復の希望を描いてみました。
いつも根暗な話が多いですが、基本的にはハッピーエンドを好む私です(笑)。
丁重な感想をいただきありがとうございました。とても嬉しかったです。

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