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田中あららさん

性別 女性
将来の夢
座右の銘 仏ほっとけ、神かまうな

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正人の憂鬱

17/08/18 コンテスト(テーマ):第141回 時空モノガタリ文学賞 【 黒板 】 コメント:2件 田中あらら 閲覧数:264

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 正人が書くものは、数式だけではなかった。自室にある一畳ほどの大きさの黒板には、頭に浮かぶアイデアや疑問などがあちこちに書かれていた。真ん中は現在進行中の課題であり、象形文字のような悪筆で主に数式が占領していた。正人は、憂鬱を抱えた数学科の学生だった。

 彼は小学生の頃、少なからず自分の書く字に対してコンプレックスを持っていた。彼はまっすぐにかけず、一つ一つの字もどこかアンバランスな絵のようだった。
 先生が黒板に書く字は美しく、教科書の字のようだった。しかし彼は、黒板に書かれた字のブツブツ感やかすれに魅せられた。
 学校の宿題は嫌いで、特に日記には何を書いていいかわからなかった。常に頭の中では考えがめぐっていたが、先生に書くべき整ったストーリーは思いつかなかった。そして「学校から帰ってから、兄弟と遊びました」という簡単な作文を提出すると、内容よりも「字をていねいに書きましょう」などという感想が返ってくるのだった。
 算数でつまずいた。「これは直線です。点は0です。線は点が集まったものです」0が集まって長さになるって変だ!
 居残りさせられ、何度も説明を受けた。線が0の寄せ集めであることが前提なので、先生の説明には納得できなかった。最後に先生がサジを投げ「これは算数の決まりなの」と言った。
 彼は突然納得した。算数はゲームなのだ。先生の書く直線が曲がっていても、まっすぐだと思えばいいのだ。彼は数の世界を楽しんだ。休み時間に黒板に線や数を引いて遊んだ。黒板でチョークが削れる感触と、鮮やかなコントラストに魅せられた。同級生は正人を変人扱いしたが、気にしなかった。

 中学生になると、数学の証明は面白く、教科書と違った方法で解くと、数学教師の片山先生は、前に出て書きなさいと言った。先生は字が下手だとか、ていねいに書きなさいとは言わず、考え方のユニークさを褒めてくれた。正人が放課後教室に残って黒板に向かっている時、片山先生は時々顔を出した。先生は、正人と気さくに話した。そして中学校の数学では教わらないような、素数、フィボナッチ数列など、数の不思議について話した。そこで正人は小学生の時に、0の集まりが線になることを理解できなかったという話をした。
「0というのは、不思議で厄介な数字だよ。ずいぶん長い間、0を受け入れなかったために、いろんな問題が起きた。0+0=0、そこに疑問を持ったことは素晴らしいことだよ。中学、高校の数学は、そういうことを突き詰めないから答えが出るんだ。でも数学研究では、答えの出ない問題の方が多いのさ」
「答えが出ないなんて、イライラしませんか」
「するよ。でも研究者は、それ以上に考えることや追求することが好きなんだろよ。答えを求めて何ヶ月も何年も考え続けるなんて、俺にはできないけどね」
 正人はそういう世界があることを知り、ワクワクした。

 正人が高校に入学すると、そこには黒板がなかった。ホワイトボードの字は味気なかった。正人は無性に黒板に字が書きたくなり、自室用に大きな黒板を買った。そしてそのことを、片山先生にメールで知らせた。すると次の日、片山先生が正人の自宅を訪ねて来た。
「これがいるだろ」と言い、チョークを一箱差し出した。HAGOROMOフルタッチチョーク72本入りだった。最高品質だ。
 羽衣文具のチョークは、固めなのになめらかで、黒板と文字のコントラストがバツグンだ。表面は薄くコーティングしてあるので、粉が散りにくく、手も汚れない。折れにくいので、チョークが折れて思考が中断することがない。そもそも、考えながら書くには、手が追いつかないほどのスピードが必要なのだ。正人は、フルタッチチョークを使って計算式を組み立てている時に、チョークが勝手に動いているかのような錯覚を覚えることがあった。他のチョークではそうはいかない。
 正人は数学の世界にのめり込んだ。目がくらむフラクタルな世界、トポロジーの官能、アルゴリズムの合理性、定理への誘惑。数学科を選択したのは、自然の成り行きだった。

 そして今、正人は焦っていた。羽衣文具が廃業するのだ。世界中にフルタッチチョークの愛用者がいるのにだ。大学には黒板があり、フルタッチチョークが山積みされていたのだが、廃業のニュースがあった次の日には、全て消えていた。手に入れるのは至難の技だ。自宅のストックはわずかだ。
 
 そんな時、片山先生がフルタッチチョークを2箱持って訪ねてきた。正人は狂喜した。
片山先生は笑った。
「勘違いするなよ、正人。チョークが問題を解いているんじゃなくて、正人が解いているんだよ。これは単なる道具さ」
「とはいえ…」
「大丈夫。正人は、紙と鉛筆しかなくても、数の探求を諦めたりしないさ」
 確かにそうだった。それを聞いて、正人の憂鬱は晴れた。


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このストーリーに関するコメント

17/10/12 光石七

拝読しました。
私自身は文系で数学のセンスはありませんが(苦笑)、主人公の思考の仕方に惹かれました。
頭に浮かぶものを黒板にチョークで書いていく主人公の姿を鮮やかに思い描くことができ、書く時の音や感触まで伝わってくるようでした。
主人公の憂鬱が晴れてよかったです。このまま数学者の道を邁進してほしいですね。
片山先生も魅力的で、読みやすく、とても面白かったです。

17/10/13 田中あらら

光石七様
このストーリーは、私自身の小学生時代の記憶を元に書きました。字の下手な理系家族に囲まれていたので、自然と正人の人格が生まれました。ちなみに羽衣チョークは昨年廃業しましたが、技術や商標などは別の会社に売られて、今も生産されているようです。
読みやすく面白かったと言ってくださり、大変嬉しいです。ありがとうございました。

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