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黒板と虚無と変態と

17/08/13 コンテスト(テーマ):第141回 時空モノガタリ文学賞 【 黒板 】 コメント:0件 けこぼ坂U介 閲覧数:160

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 灼熱の日差しの中で、墓石が陽炎に揺れている。耳元のラジオでは火蟻駆除のニュースが流れている。似たような墓に囲まれながら、彼の墓はいつも何処か寂しげだった。傍の小さな黒板を拾い上げて積もりに積もった汚れを叩く。1年前に書いた文字は既に消えてしまっていた。追悼の思いを込めながら、新たにチョークで「渡辺」と書いた。

 仕事に疑問を感じて辞めようかと悩んでいた27歳の夏だった。管轄の女子校からの通報に急いで駆けつけると、教頭だという偉そうなおばさんが校舎入口に控えていた。内容は事件というほどの事でもない、単なる落書きであった。幾つかの教室の黒板右下の日直の欄に「荻野」、「渡辺」と並んで書かれている。
「うちに荻野なんて生徒はいないんですよ」
全ての生徒が帰った後にされた落書きであり、不法侵入の疑いがあるのではないかという事だった。
 持ち帰って報告すると、別の女子校でも似た事例が数件あった。やはり同じ苗字の落書きだそうだ。誰が何の意図で書いているのかは分からないが、窃盗など他の被害は無いようだった。「こりゃあ、犯人は荻野か渡辺だな」と係長が軽口を言った。「変態ですかね」と言葉を返す。しばらくの沈黙の後、係長は無言で立ち上がり、
「変態だろうと何だろうと、犯罪者を捕まえるのがワシらの仕事」
私の肩をポンと叩いて、諭すように言った。

 張り込みを命じられて夜間の女子校に来た。昼間は賑やかであろう校内は怖いほど静まり返っている。一人で夜の教室を見回りながら、犯人の目的を考えた。対象が女子校ばかりだから、やはり犯人は変態だろうか。ベタに荻野さんが好きな渡辺君か、渡辺さんが好きな荻野君が犯人かも知れない。果たせなかった恋心を、男女ペアの日直の落書きという屈折した形で表現しているのだ。以前に見た落書きは左が荻野だったから、荻野犯人説が自然か。確か子どもの頃の日直は左を男にした気がする。正解は目の前に唐突に現れた。トイレから飛び出してきたのは190cmはあろうかという図体のでかい中年の男だった。胸に「渡辺」と書かれた女子用のスクール水着を着ている。サイズが合わずに引っ張られ、股間が異様なほどモッコリしていた。驚いてこちらを見て一目散に逃げていく。
「コラッ、渡辺!」逃げる男を追いかける。「渡辺」は裸足であったが異様な速さで廊下を走っていく。急に異臭がした。よく見ると男は尻の辺りもモッコリしていて、水着を着たまま大便していたようであった。
「待てーっ!」
息を切らして彼の背中を追いかけながら、ふと虚無感に襲われた。懐中電灯で照らした時の、彼の病んだ瞳。人生の袋小路に迷い込んだ男の目だった。女子校に侵入し、スクール水着を着て脱糞。何が彼をここまで屈折させたのだろう。彼を逮捕して社会が得るものは何か。異常者を排除した上での、女子高生の平和な日常だろうか。黒板に落書きされた人と、自分を制御できずに苦しむ人。守るべき本当の弱者は誰なのだろうか。気づくと追いかける足を止めている自分がいた。
「お巡りさん、捕まえてやりましたよ」
帰ろうとした時、警備員が誇らしげに報告してきた。奥の座敷で別の警備員に睨まれながら「渡辺」が項垂れている。応援を呼び、「渡辺」は静かに警察署に移送されていった。

 物静かで気の小さな、37才の無職の男だった。名前は渡辺じゃなく荻野だと小さな声で答えた。では渡辺は誰なのかと聞いても黙して答えなかった。人に話したくない秘めたる思いがあるのだろうと、それ以上聞かなかった。大きな犯罪に発展しない内に抑止したと喜ぶべきなのだろうか。塞ぎ込む男を見ると、どうもそんな気持ちにはなれない。何となく憂鬱になり頬杖をついていると「お前は優しすぎるな」と隣にいた係長が言った。この仕事に向いてないと暗に言われている気がした。

 仕事を辞め、荻野が死んでから四年の月日が流れていた。罪の意識を感じたのか、それとももう耐えられなくなったのかも知れない。彼はそれまでの人生がそうであったように、ひっそりと静かに自らの命を絶った。私はその事を消化しきれず、今年もまた墓参に来た。聞いていたラジオのイヤホンを外すと、一気に蝉の声が広がった。カラカラに乾いた墓石を水で丁寧に磨いてやる。意味がないと思いながら、朽ちかけた小さな黒板を手に取り、今年も「渡辺」と書きこんだ。日直の落書きで隣合っていたのと同じように、墓石に立てかける。ふと地面を見ると、見慣れない赤い蟻が何匹も蠢いていた。スマホで調べると、今しがたニュースで話題にしていた火蟻だった。
「渡辺って結局誰なんだ」と荻野の墓石に話しかけた。パタンと音を立て、立てかけた黒板が倒れた。火蟻たちは整然と私の前を通り過ぎていく。「殺されないように頑張れよ」と彼らに向かって呟いた。


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