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宮下 倖さん

宮下 倖です。 楽しくたくさん書いていきたいです。

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育児日記

17/08/12 コンテスト(テーマ):第140回 時空モノガタリ文学賞 【 育児 】 コメント:0件 宮下 倖 閲覧数:140

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「どうした晴美」
 麦茶のコップを持ったまま玄関先に出てきた父は、眠っている優作を抱いた私を見て目を丸くした。
 夏の午後、昼寝をする優作の寝顔を見ていたら息をするのも苦しいほどの不安と焦燥に襲われた。いてもたってもいられなくなり、優作を抱いて近所に住む父を訪ねてきたのだ。
「ねえお父ちゃん、私って育てやすい子だった?」
 絞るように出した声に父は片目を細くし「上がれ。麦茶しかねえけどな」と持っていたコップを呷った。

 思えば妊娠中は楽だった気がする。
 お腹はどんどん大きくなり、赤ちゃんの存在を日々感じていたけれど私は「私」だった。
 私の体は放っておいてもお腹の子を育ててくれている。それだけで母になった気がしていた。
 でも優作が生まれて子育てが始まり、母と子という実態を得て私は一気に不安になった。
 夫が一緒にいてくれても、育児本をいくら読み漁っても、いっかな不安は去ってくれない。それどころか、本の内容と一致しない子育ての日々にますます不安は膨らんでいった。
 母親なのに優作がどうして泣いているのかわからない、泣きやませることができない。何が正解なのか、どうしたら本のような育児ができるのか。
 自分の時間はむしりとられ、私は「私」ではなくなった。でもそのぶん「母」になれているのかと考えても自信はない。
 もう少しで優作は二歳になる。人からは「まあおとなしい。育てやすいでしょう?」と言われることが多いけれど、初めて子どもを育てる私にはそんな判断はつかない。曖昧に笑うだけだ。
 でも子育ての先輩が言うのだからそうなんだろう。優作は育てやすい子なんだろう。
 それならば、そんな育てやすい子の育児に悩み、つまづき、不安になり、苦しい気もちを抱える私は母親として失格なのではないだろうか。
 私の母は、私が一歳になる直前に事故で亡くなった。だから私には母の記憶がない。
 男手ひとつで育ててくれた父のことは大好きだし感謝している。
 でも、母を知らずに育った私では、いい母親になれないのかもしれない。

 居間のソファに優作を寝かせ、その傍にぼんやりと座り込んでいると父が戻ってきた。
「麦茶と……あと、これ読め」
 父が差し出したのはずいぶん厚みのあるノートだった。受け取ろうと伸ばした手が止まる。表紙に「育児日記」と書かれていたからだ。
「今ならなあ、おまえはいい子で育てやすかったとわかるんだが、当時は無我夢中でな。もう自分で何やってるんだか毎日わからなかったよ。毎日失敗して不安で悩んで、泣いてるおまえと一緒に泣くこともあった。……まあ、読んでみろ」
 父はやわらかく笑い、私の手にノートを押し込むと少し離れたところに座った。
 父が書いた私の育児日記。しかし表紙を開くと見覚えのない字が並んでいた。少し考えて、はっと顔を上げる。
「それはな、最初お母ちゃんが書いてたもんだ。亡くなったあとからは俺が書いてる」
 それは私が生まれた当日から書かれていた。少しずつ増えていく私の体重、おしっこやうんちの回数やその様子、授乳の時間などこまごました記録のほか、母の一言があちこちに書かれていた。
<生まれた! 可愛い可愛い可愛い!>
<ふたりで決めた名前は晴美。いつも晴れやかな笑顔でいられるよう>
<ねむい。イライラする。なんでねないの、なんで泣くの。わからない、もうやだ>
<笑った!>
<感情的に叱ってしまった。すごく泣いてた。こんな母親の元に生まれてきて晴美は幸せだろうか>
<もうすぐ一歳。歩く姿が早く見たい。一緒にお散歩に行きたいなあ>
 母の字はそこで終わっていた。あとには見慣れた父の角ばった字が続いている。
 内容は不器用な父らしく覚書のような素っ気ない記述が多かったけれど、ところどころ、母と同じような一言があった。
<はじめての散歩。ずっとびっくりしたような顔で歩いていた>
<夜泣きが続く。朝がつらい>
<小学校入学。片親でいじめられないだろうか>
<父の日。手紙がうれしい>
<俺はいい親だろうか>
<侑子が生きていてくれたら生きていてくれたら生きていてくれたら>
 視界がぼやけたと思ったら一気に涙があふれた。嗚咽が止まらない。
 父と母の気もちが苦しいほどわかる。今の私と同じだ。
「人が人を育てるのにテストの答案みたいな正解なんてねえんだ。みんな必死で、無我夢中で毎日子どもと向き合ってる。しんどいこともあっけど、それがいつか勲章になる日が来っから」
 今の俺みてえにな。
 父はそう言って笑った。その声に目を覚ましたのか、優作がもそもそと体を起こす。泣いている私を見て、優作はびっくりした顔をした。
「ママどうしたの? どっかいたいの?」
 いたいのいたいのとんでいけえ。
 ちいさい手が私の頬を撫でる。私は優作をぎゅっと抱きしめた。


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