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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

性別 女性
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グランマの心得

17/08/10 コンテスト(テーマ):第140回 時空モノガタリ文学賞 【 育児 】 コメント:0件 秋 ひのこ 閲覧数:298

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 血管の浮き出た骨ばった手がさっと台拭きを掴み、小さな口とその周りをゴシ、と音が聞こえるような手つきで拭った。
 それ台拭きです、と言う間もなかった。
「はー、きれいきれいね」
 乾いた唇に口紅だけ塗りたくった顔が、くしゃりと微笑む。
 
 夫が3ヶ月の海外出張に出たことで、夫の母フジエが「産後育児の助っ人に」と40年前のおんぶ紐や玩具を抱えて現れたのは、3週間前のことである。 
 34で子供を産んだY子をノイローゼ寸前に追いやっているのは、生後10ヶ月の赤子の世話でもなければ、父親の自覚が皆無な夫でもない。孫を我が子のごとく育てようとする居候、義母の存在である。
「あらら、ご機嫌ナナメねえ」
 火がついたように泣き喚く息子をあやしていると、フジエが横から「貸しなさい」と子を奪った。小さな身体に負担がかかることを恐れ、ついぱっと手を放してしまう。
「ほらほら、『ふじえママ』でちゅよー」
 Y子は空になった手をしばらく眺める。随分前から、頭がぱんぱんに張ったゴム風船になってしまったようで、うまく物事を考えられない。
「Y子さん、流しに洗い物溜まってるわよ。お風呂も汚れてたし。助っ人がいるのに家事もままならないなんて駄目ねえ」
 ゴムの頭はフジエの吐く毒を鈍く吸収し、ひどく不透明な内側がますます重くなっていく。Y子は言われるがまま、よろよろと風呂場に向かった。
 湯船に浮く老人の垢を流し台所へ戻ると、まだ泣いている息子の口に、フジエが67年ものの歯で租借した何かを指で突っ込んでいる。まただ。
 背中に虫が這うような嫌悪が伝っても、ゴムの頭はもはや止める気力もない。
「よちよち、おいちいでちゅよぉ」
 最初は大声をあげて制止していた。虫歯菌がうつるって何度言ったらわかるんですかほんとやめてください古いんですお義母さんのやり方。
 チャイルドシートから息子を出して抱いてしまう。大人の食事は租借さえすれば食べさせていいと信じている。アレルギーははなから理解する気がない。母乳は「あなた歳いってるから栄養ないわよ。ミルクにしましょ」。
 息子のために闘えない自分を責め、気が狂いそうになる。

 居間から聞こえる話し声で目が覚めた。
 寝かしつけてそのまま自分も眠ってしまったらしい。
「昔トシ君の子供産みたーいって言ってたの、覚えてる?」
 フジエは声が大きい。息子がふえふえ言い始めた。せっかく寝たのに。
「もうあの子はあたしが育ててるようなもんよ。だからトシ君は安心して仕事がんばって。なんたってあたし、育児のプロなんだから」
 あはははは、とフジエが笑う。
 夫とスカイプしている。私だって、夫に話したいことが山ほどあるのに。
 本格的にぐずり始めた息子をY子は抱き上げた。
 朦朧とした頭で前後左右に揺らす。
 ぱっと部屋の明かりがついた。振り返ると、「もう、駄目ねえ」と腕が伸びてきた。
「ほら、『ふじえママ』がきたからもう安心よぉ」

 頭の中で栓が勢いよく抜けるような軽快な音がした。

 かえ、してっ

 悲鳴のような声が出た。そして、力任せに息子を奪い取る。
 フジエが目を見開いた。
 かえしてかえしてかえして、これは私の息子ですっ
 背を丸め、体全体で子供を抱え込む。
「そんな言い方ないじゃない」
 目を吊り上げ、フジエは「泣いてるでしょ、貸しなさい」と息子に手を伸ばす。それを片手で勢いよく振り払うと、急に視界が開けた。頭が軽い、呼吸が楽だ。
 Y子はフジエを睨みつけた。その反抗的で血走った双眸に、フジエは「なんなのよ」と再び、今度はものを扱うようにがっしりと息子を掴みにかかる。
 ふたりの女が力ずくで赤子を奪い合う。そして――、
「あっ」
 おくるみが剥がれ、中に収まっていた息子が誰の腕に掴まることもなくすぽんと宙へ跳んだ。



 『口出しは、ほどほどに』という字幕が、黒画面に白く浮き出た。

 『グランマの心得』は、最近テレビでも取り上げられる話題の動画だ。
 内容が過激でひとつもためにならない、と大不評。だが、声高に不評が叫ばれれば叫ばれるほど、怖いもの見たさと好奇心で視聴回数は伸びた。
「観たけど、やっぱり噂通りロクなビデオじゃないわね」
 義母が忌々しげにスマホを机に置いた。
 愛は1歳の娘を抱きながら曖昧に微笑んだ。
「私はこんなビデオみたいな女と違うでしょ。でもね、昔のやり方昔のやり方ってうるさいけど、それで貴方たちは立派に育ってるじゃない。そんな目くじら立てて否定されてもってカンジ」
 ねー、マイちゃんならわかってくれるわよねー、と義母が娘を奪い、30年前の脂ぎった人形を小さな頬にぎゅっぎゅと押し付ける。
「グランマは育児のベテランなのよー」
 愛はその様子を見つめ、やはりビデオはひとつも役に立たない、と思った。


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