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文月めぐさん

第144回時空モノガタリ文学賞【事件】にて、入賞をいただきました!拙い文章ではありますが、読んで感想、批評等いただければと思います。よろしくお願いします。Twitter→@FuDuKi_MeGu

性別 女性
将来の夢 作家
座右の銘 失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。

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黒板日記

17/08/05 コンテスト(テーマ):第141回 時空モノガタリ文学賞 【 黒板 】 コメント:3件 文月めぐ 閲覧数:375

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 煉瓦造りが特徴のその古めかしい喫茶店は、僕が約十年前から行きつけにしている喫茶店だ。仕事でストレスがたまっていた当時、コーヒーの香りに誘われるようにふらりと立ち寄ってみたのだが、そのコーヒーがなんとも優しい味だった。それ以来、そこのコーヒーが病みつきになってしまったのだ。
 店名はひらがなで「おたべ」と書く。その名前はマスターの田部正樹さんの名前からとっている。
 僕が「おたべ」に通っている理由はコーヒーのうまさだけではなく、マスターの人柄に惹かれたということもある。当時からすっかり白髪になっていたマスターは、いつも優しい笑みを浮かべており、僕みたいに一人で訪れる客の話を熱心に聞いてくれる。十年通ったおかげで、今ではすっかり仲が良くなった。
 ある初夏の土曜日。僕は散髪を終えた帰りに「おたべ」に立ち寄ることにした。煉瓦造りの壁が見えてくるのと同時に、今日はマスターのどんな話が聞けるのかとわくわくする。そして何を注文しようかと考える僕の目の前に、チョークで書かれたマスターの柔らかい文字が飛び込んできた。
 【かき氷はじめました】
 店先に置かれている黒板に書かれた白い文字と、赤や黄色で描かれたかき氷のイラスト。そして下の隅っこには「今年は暑中見舞いを書こうと思い立ちました」という小さい文字。メニューや値段、イラストとは関係がないけれど、マスターの日常がうかがえるコメント。僕はこの黒板に毎日書かれるマスターの日記が本当に楽しみなんだ。

 目の前に置かれたレモン味のかき氷。決して豪華ではないけれど、控えめに添えられた輪切りのレモンがお洒落だ。
 「マスター、家庭菜園は順調ですか?」僕が一週間前に訪れた時の日記が「家庭菜園に挑戦します」だった。何を作っているのかは教えてくれなかったけど、「野菜ができたら大輔さんにも差し上げますから」と言われて楽しみにしているのだ。
 「まだまだですよ。焦ってはなりません」マスターはそう言って優しく微笑んだ。

 【しばらくお休みします】という貼り紙を見たのは、夏真っ盛りになったころだった。世間では「熱中症に気をつけましょう」と言われているが、マスターに何かあったのかもしれない。僕は毎日仕事の帰りに寄り道をして、「おたべ」の様子をうかがっていた。

 貼り紙が外され、窓から店内の灯が漏れるようになったのは、秋になってからだった。ようやく店が再開されたのかと安堵のため息を漏らした僕の目に飛び込んできたのは、メニューと値段だけが書かれたそっけない黒板だった。
 いやな予感が脳裏を駆けめぐった。
 店先で突っ立っている僕の目の前のドアが、突如開けた。出てきたのは、二十代くらいの若い女性だった。お客さんではない。マスターが着ていたのと同じエプロン姿だ。
 「いらっしゃいませ。入られますか?」
 店内を示す、その女性に対して、僕は上ずった声で「マスターは?」と一言尋ねるのがやっとだった。
 「祖父は……いえ、マスターは八月に体調を崩してそのまま……亡くなりました。今は私が店を引き継いでいます」
 おのしょうこと申します、と言った女性の声が、耳の穴からぽろぽろと零れ落ちるようだった。
『野菜ができたら大輔さんにも差し上げますから』
 そう言ったマスターの声が唐突によみがえった。
 「あの」
 気がつくと僕は声を出していた。
 「マスター、何か野菜を育てていませんでしたか?」
 しょうこさんは一瞬怪訝な顔をしたが、ああ、と思い出したようにうなずいた。
 「何か育てているようでしたが、すべて処分しました。私たちの手には負えそうになかったので」
 最後にマスターに会った日の黒板に書かれていた日記をよく覚えている。「久しぶりにきれいな夜景を見ました」だった。「孫にも見せてやりたかったです」と言っていたマスターのやさしさを僕は忘れたくない、と強く思った。


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このストーリーに関するコメント

17/08/08 浅月庵

文月めぐ様
作品拝読いたしました。

マスターの人柄の良さが自然と滲み出ていて、
だからこそ最後のお孫さんの一言は、
絶対的な悪意はないにせよ、残酷に映ってしまいますね。

その心温まる話にはいかない、コントラストのつけ方が
秀逸だと思います。良作でした。

17/08/28 沓屋南実

はじめまして。

コーヒー好きなので、その一語に誘われて読ませていただきました。
よくある店先のメニューを書く黒板。
しかし、添えられた短文の人間味は人の温かさを求める人に届いたのですね。
私がいつかカフェを開くなら、こんな工夫をしてみたいと思いました。
孫娘さんには、その良き習慣が引き継がれなかったようですね。
でも、これも珍しいことではなく、彼女は新しく別な工夫をしてそれに合うお客さんがつくのでしょう。

実は、嫁ぎ先が喫茶店をかつてやっていて、手伝いもしたので。
いろいろと具体的に考えが発展していきそうです(笑)。

情景の浮かぶ素敵な作品でした。

今日はこの辺で、失礼します。

17/09/12 むねすけ

読ませていただきました

好きになった本をまたひらく理由に、作中のあの人にまた会いたいという思いがあります
読み終えて、またマスターと大輔さんに会いたくなる、素敵な物語でした

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