沓屋南実さん

音楽、表社会系、詩、エッセイなど書いております。 よろしく、お願いします。

性別 女性
将来の夢 小説家。 音楽を聴きながら、一日中本を読んで、小説を書く生活。 行きつけの音楽カフェで、皆とおしゃべりすること。
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楽園

17/07/17 コンテスト(テーマ):第138回 時空モノガタリ文学賞 【 猫 】 コメント:0件 沓屋南実 閲覧数:369

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 電話が鳴った。
 夫の出勤を見送り、朝食の後片付けをしながら、ラジオから流れる変拍子のワルツに耳を傾けていた。実家の母からだった。
「琉が、琉が……」嗚咽のような声だった。
「琉が交通事故を起こしたよ。すぐ風間病院へ行って」
 琉とは、私の4歳年下の弟だ。驚いて母に詳細をたずねるが、要領を得ない。命に別状がないことだけはわかった。取るもの取りあえず車で病院へ急いだ。
 20年以上も前の春のこと。季節を覚えているのは、桜が咲いていたからだ。涙ににじむ花の色の美しさは鮮明に残っている。
 
 風間病院の看板には、精神科、神経科と書かれていた。交通事故なのに。
 受付で弟の名前を告げると、病院スタッフの男性が病室へ案内してくれた。この人に歩きながら幾つか質問して、だんだん状況がわかってきた。
 早朝車を運転していた弟が、交差点でバイクと接触事故を起こした。バイクに乗っていたのは男性で怪我をしたが、不幸中の幸いで通院だけで済むらしい。車に乗っていた弟は、何もでずその場で茫然自失となってしまった。救急車や警察には通りがかりの人が連絡してくれた。やっと母だけには連絡をした。そして、ここへ母に連れられて来たのだった。
「弟さんは、精神的な問題を抱えておられます。当面入院して治療をしたほうが良いでしょう」
 胸をえぐられるような衝撃を受けた。
「琉は元気だったんです……」
 順調とは言えなくても、両親が営んでいた包装用品の販売の仕事を継いで、毎日お客さん先に配達している。父はすでに他界し、母とふたりで仕事に励んでいる。私は言い訳でもするように、スタッフの男性に早口でまくしたてた。
「そうですか。お姉さんはよく会っていらっしゃったのですか」
 言われてハッとした。結婚して以来、用事があれば実家に立ち寄るけれど、ゆっくり琉と話す機会はほとんどなかったのである。

 3週間して弟に退院の許可が出た。私は、しばらく療養生活が落ち着くまで付き添うことにした。
 生気のない目をした琉は、一日中寝ているのか起きているのかわからなかった。寝言なのか目を閉じて独あり言を言っているのか。長々と亡くなった父の恨み言を言い始めたり、母がふたりで営んでいた店をやめさせなかったことを責めたりした。
 隣の部屋で寝起きしている私は、夜中に琉の大声で目が覚めた。弟は何かに追いかけられているように、汗をかいてバタバタ手足を動かしていた。
 私はそばへ行き、「しっかりして」と声をかけて弟を揺さぶった。目を覚ますと、身震いをして
「悪魔が来る。追いかけてくる。怖い、怖い」と喚いた。
「ここに私がいるから、大丈夫」と言って背中をさすってやった。
 悪魔はいないのに、私も怖かった。あまりにも弟が可哀想で、涙が出た。
 
 歳月は容赦なく過ぎていくばかりだった。20年も弟が病気から解放されないとは、あのとき思ってもみなかった。

 母が介護施設に移る頃、弟は何度目かのアルバイトに出かけた。長い療養期間を経ての復帰で、そのためのプログラムの作業所を通院先の先生に紹介してもらった。私が実家に顔を出すと、弟はほぼ休まずに続いていると言った。
「楽しそうだね」
 私が言うと、弟はうなずいた。
「うん。自分でも驚くぐらいにね。スタッフの人がとても良くしてくれるんだ」
 職場では、一番長く闘病生活をしているので、何かと相談されるらしい。頼りにされることも、嬉しいのだ。
「自信がついたら、しっかり働きたい」
 発病する前、母は私に琉は怠け者なんだと言ったけど、そんなことはないのだ。近くに住む伯父には、発病してから何度も悪く言われた。反論できなかった自分が情けない。本人の前でないのが幸いだったけど。
「そうだね、できたらいいね」
 心の奥底から、良かったと思った。
「うん。で、ダメだったらまた戻れるんだよ」
「へえ、そうなんだ。じゃ安心だね」
「いつか田舎に引っ越したいんだ。小さな中古の家を買って」
「ここじゃダメなの?」
「猫を飼いたいんだよ。ここはご近所に猫嫌いの人がいるからね」
「畑で野菜を作りながら、猫と暮らす。いいなあそんな生活」
「5、6匹は欲しいな」
 弟の目は生き生きと輝いていた。
 ある程度家と家が離れていて、猫を放し飼いにできるところ。菜園をこしらえて、野菜を育てる。ときどき、一緒に働いた仲間が遊びに来たりして。猫たちははしゃいだりもてなしたり、忙しく動き回ったり。目の前の弟は、期待をふくらませワクワクしているようだ。
 私はじんわり胸にこみあげるものを感じ、泣きそうになった。弟の心の中に、きっと明るい陽射しに満ちた楽園が広がっている。
「あら、いいね。そうしたら、ときどき遊びに行かせて」
 私がそう言うと、弟は幸せそうに、まるでその楽園がすでにあるかのように、うなずいた。


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