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本宮晃樹さん

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波動関数を収束させるな

17/07/15 コンテスト(テーマ):第138回 時空モノガタリ文学賞 【 猫 】 コメント:0件 本宮晃樹 閲覧数:452

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 ゲンが往生したらしいことを、俺はいまだに推測でしか知らない。
 つい三日ほど前、普段まったく電話なんかかけてこないおふくろからだしぬけに連絡があった。開口一番彼女はこう言った。「お疲れさま。あのね、実はゲンが昨日――」
 電話を切った。危なかった。死んだほうのゲンに波動関数を収束させちまうところだった。
 俺は認めない。ゲンは死んでなんかいない。そうだろうが?

     *     *     *

 やつとの付き合いは十五年にもなる。
 おふくろの職場に飼い猫の去勢をうっかり忘れた粗忽者がいて、ためにその一家では三匹という天文学的な数の仔猫が生まれる仕儀と相成った。おもに費用面でのやむをえない事由により、どうしても一匹を処分せねばならぬという無慈悲な判決が下されたおり、持ち前の動物愛護精神をおふくろが発揮したというわけだ。
 ゲンがリクルートされてきたのは俺が八つの時分だったから、ほとんどこいつと一緒に青春をすごした勘定になる。おふくろの愛護精神は誓って本物なのだが、いかんせんいったん当該動物の安全が確保されたが最後、嘘みたいに気を緩めるという悪癖がある。
 したがって彼女はえさを作らない。にもかかわらずゲンはえさを食べねば鬼籍に入る。このジレンマは当人同士に任せておいちゃだめだ。誰かべつの第三者が介入する必要がある……。
 クラスの女の子にこっぴどくフラれた日も、百メートル走で十三秒を切った輝かしい日も、ゲンは変わらずのっそりと縁側で丸くなって眠っており、触られると露骨にいやがったもんだ(そのくせのどを鳴らし始めるのだから始末が悪い)。それからあくびをひとつかまし、皿の前に居座って俺のほうを上目遣いで見てからひと鳴きするのだった。それを意訳するとこうなる。「飯をよこせ、とんま野郎」
 俺はつねづねこの勘ちがい貴族に我慢がならなかった。雉トラの雑種のくせして態度は王侯並み、運動能力は低く、右に左にめまぐるしく動く物体にもさしたる関心はない(おそらくねずみにもだ)。
 あんまり頭にくるもんだから、大学を出て実家を離れてからも頻繁に帰省し、ゲンが老衰で日に日に弱っていくさまを逐一見届けにいっていたほどだ。まったくざまはない。
 最後に帰省したときも、やつはいつもと変わらず陽の当たる縁側で丸くなっていた。俺はひとしきりゲンにかまってやつをいらいらさせたあと、安心してアパートへ帰宅した。まだまだ大丈夫そうだった。
 そのまま来年も再来年も、例の縁側で相変わらず丸くなっている。そんな日々が続くに決まっているのだ、やつのことだから。

     *     *     *

 量子論の哲学的側面を揶揄する目的で、〈シュレティンガーの猫〉という思考実験が考案されたのはご承知の通りだ。一時間以内に五分五分の確率で崩壊する放射性元素があり、それに連動して毒ガスが発生するという妙に凝ったしくみの箱のなかへ、猫をぶち込むという例のあれだ。
 常識的に考えれば箱の中身について、特段申し添えるようなことはない。一時間後には生きた猫かそうでない猫かのいずれかにお目にかかれる。それだけだ。ところがコペンハーゲン解釈はそう考えず、観測されるまで猫の生死は確定されず、両方が重ね合わせの状態で存在するとのたまう。
 観測された瞬間に確率の波として記述されていた「二匹」の猫は、生か死のどちらかに確定する。これが波動関数の収束と呼ばれる考えかたで、主流派のコペンハーゲン解釈はこれを支持している。一応これでも科学なのだ、あしからず。
 そこで俺はこう考える。〈シュレティンガーの猫〉が観測されるまで生死を確定できないなら、なぜゲンがそうでないと断言できる?

     *     *     *

「お帰り」とおふくろ。「こないだ電話したんだけど、ゲンが――」
 俺は唐突に駆け出した。観測とはなにも自分の目で見るだけじゃない、どんな間接的な手段でもかまわないのだ(たとえばおふくろから又聞きするとか)。その瞬間波動関数は収束する。そんなことさせてたまるか。
 例の縁側へ。猫砂もえさ用の皿もそのままになっていた。暖かい陽射しの当たる感じのよい田舎の家屋。だがこの光景にはなにかが足りない。
 そう、ドーナツみたいに丸くなった老猫がいないのだ。
 そのとき、俺は不意に確信した。「ゲン、お前本当に死んじまったんだな」
 確かに俺はやつの死体を見ていない。厳密にゲンの死を観測したとは言いがたい。次の瞬間、ひょっこり目の前で丸くなっているというのも考えられる。
 だがいい加減認めるべきときがきたのだ。いつまでも量子力学なんぞにしがみついてないで、どうして彼の冥福を祈ってやらないんだ?
 俺はそうした。目を閉じる。記憶のなかでゲンがひと鳴きした。「先にいくぜ、とんま野郎」


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