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maimoさん

はじめまして、maimoです。2017年6月に初めて投稿させていただきました。noteにエッセイ、掌編、映画レビューなどを書いています。ご覧いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。 https://note.mu/myny

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渚のスケッチ

17/07/03 コンテスト(テーマ):第137回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:0件 maimo 閲覧数:170

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岩井と出会ったのは中学二年の新学期で、親のすすめで入部してしまった美術部を辞めようと考えている時期だった。今日こそはと退部届を手に職員室の扉を開けたら、その青年が目の前にいて、ちょうど美術部の顧問へ入部届を提出しているところだった。
それは、我が中学校の美術部に、初の男子部員が誕生した歴史的な瞬間だった。その場で小躍りするほど喜んでいる先生を見て、私はその紙を掌の中に小さく押し込めた。

岩井は、背が高く、色の白い、涼しげな顔立ちの美少年で、元水泳部員だった。なぜ水泳部から美術部に移ってきたのか、そのいきさつは誰一人知らなかった。女子たちは詮索のための秘密結社をつくり、もちろん私もその一員だったのだけれど、他の子たちが岩井の表面的な魅力に惹かれているのに反し、私は岩井の内面に惹かれていた。女子ばかりが数十人も集まる空間で、黙々と絵を描き続けることができるのは、いったいどんな勇気の持ち主なのだろうと。

とある放課後、思い切って私は、岩井に近付いた。
「岩井は、どうして入部したの?」
「絵を描くのが好きだから」
「男子ひとりで、嫌じゃないの?」
「なにが?」
スススと心地の良い音を立てて鉛筆が紙の上をすべっていた。岩井はそこから目を離そうともしなかった。私にとっての革新的な一歩は、岩井にしてみればその日のデッサンほど重要な出来事ではなかった…私はその日、長い長い日記を書いた。

岩井のことで一番よく覚えているのは、夏休みのスケッチ旅行だ。ある暑い土曜日、私たちは画材道具を持ってバスに乗り、ビーチへ向かった。
あまりにもふだんの活動とかけ離れた小旅行は、私たちにとってお祭りのようなものだった。制服姿ではしゃぐ女子中学生の団体はただでさえ目立っていたが、その中にぽつんといる岩井の存在はひときわ人目を引いた。バスが大きく左折した瞬間、私たちはワーと歓声をあげた。視界いっぱいに空と海が広がっていた。

女子たちは思い思いの場所に腰をかけ、頭の中で切り取った自分だけの渚をスケッチしていた。さざ波は絶え間なくきらめき、潮風が首筋の汗を撫でていった。私はローファーと靴下を脱いで裸足になり、足の裏全体で熱い砂の感覚を楽しんでいた。絵を描くことには、そんなに夢中になれなかった。それよりも今この目の前の白い泡にとびこんでいけたら、どんなに気持ち良いだろう。

「それよりも今この目の前の白い泡にとびこんでいけたら、どんなに気持ち良いだろう」

背後で、誰かが私の書いた文章を読み上げた。私はびっくりして飛び上がった。
「やめてよ」
「何それ、小説?」
岩井のそんなニヤニヤした顔を見るのは、初めてだった。
「ちょっと、ほんとやめてよ」
「見せてよ」
「無理」

私はバカだった。家以外では文章を書かないようにしていたのに、つい気がゆるんでしまった。穴があったら入りたい、今すぐ家に帰りたい、記憶を消したい。誰にも見せたことのない自分が、いともあっさりと岩井なんかに見られてしまった。恥ずかしい。恥ずかしさで人は死ねるかもしれないと、私は本気で思った。

「あんたが絵を描いてるの、見たことないけど、ほんとうは小説家になりたかったんだ」
岩井は笑った。
「別に、そんなんじゃない」
「書けばいいじゃない」
なんだか大人のような言い方で、それだけ言い残した岩井は、浜のにぎわいの中心へ向かっていった。一瞬、立ち止まったかと思うと、するすると制服を脱ぎ始めた。ベルトが外されてズボンが足首にするりと落ち、あ、と思うと、下に水着を着ていた。まったく日焼けのしていない岩井の全身が、まぶしい光の下で、痛々しいほどあわらになった。もっともその背中は屈強で、私はすぐに岩井が元水泳部員だったということを思い出した。
「ちょっと、岩井君!」
先生の大きな声があがった時、すでに波がその白い体をつかまえていた。

−−−

小説家になろうと思ったのは? というインタビューを受けるとき、いつも私は、この日のことをありありと思い出す。岩井君はその後学校を休みがちになり、中学三年の夏にはもう居なくなってしまっていた。心臓手術をするために大学病院のある隣県へ引っ越したという噂もあれば、違う、病気で亡くなったのだ、ということを真顔でささやく人もいた。

もう小説など書きたくない、と思うときがある。そういうとき私は、自宅のソファに沈み、そっと目を閉じ、岩井君の泳いだ海に体をゆだねる。私たちの白いスケッチブック、跳ねるビーチボール、潮騒のリズム、ありとあらゆるにぎわいの真ん中を、遠いブイに向かって力強く泳いでいく岩井君の背中が記憶に蘇る。とぷりと大粒の涙があふれるのを、そっと指でぬぐう。

そうしてひとしきり泣いた後、私はまた小説を書こうと思えるのだった。


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