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かめかめさん

http://ameblo.jp/kamekame1976/ ブログデシセイカツバクロチウ

性別 女性
将来の夢 印税生活
座右の銘 ハワイに行きたいと思ったら、一歩踏み出さないといけない。 ハワイは向こうから近づいてこない。

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海の名残

17/06/29 コンテスト(テーマ):第137回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:0件 かめかめ 閲覧数:272

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「いらっしゃいませ」

 北風に髪をなぶられながらオーク材の重い扉を押しあけると深く暖かな声に出むかえられた。開店から間もないバーに客は居らず、カウンターの中で口髭をたくわえた店主がひとり、グラスを磨いている。カウンターの一番奥、壁にもたれるように彼女はスツールに腰かけた。

「お久しぶりです」

 紙製のコースターを差し出しながら店主が挨拶した。

「……覚えているんですか?」

「はい。一度、高坂さまとご一緒にご来店いただきました。二十年ほどになりましょうか」

 高坂、という名を噛みしめながら彼女は目を伏せる。

「彼は常連だと言っていましたものね」

「はい。よくお越しいただいておりました」

 スクリュードライバーを頼む。待つ間にカウンターの奥の壁、作り付けの棚に整然と並んでいる瓶を眺める。ふと目が止まったのはラフロイグ。高坂が好きだったシングルモルトウイスキー。
 店主は細長いタンブラーに注がれたウォッカとオレンジジュースを長いバースプーンでくるくるとまぜる。店には低く波のようにジャズが流れていて寒さに固まっていた体がほぐれていく。

「おまたせしました」

 縦長のグラスがコースターに差し出される。彼女は黙ってグラスに口をつけた。二十年前、初めてこの店に来た時と同じ味だった。あのころはまだお酒を覚えたばかりで、たった一杯で真っ赤になってしまった。高坂は微笑んで水を頼んでくれて、決して無理な飲ませ方はしなかった。
 何事においても彼は紳士的で理知的で、いつも微笑を湛えていた。好きな酒を口にする時はますます嬉しそうに笑った。

「ラフロイグをください」

 手のひらで包むのにちょうど良い大きさのグラスに丸く削られた氷がひとつ。そこにラフロイグが注がれる。彼女は琥珀色の液体を舐める。きついアルコールと独特のヨードの臭いが鼻に突き刺さる。一舐めしただけでコースターにグラスを戻した。

「ラフロイグは」

 店主はそっと語る。

「アイラ島というスコットランドの小さな島で作られます。独特なヨードの臭いは海の香りだと言われています」

 沈黙の底をジャズが漂う。カランと氷が澄んだ音をたてる。彼女はじっとグラスに視線を注ぐ。

「高坂の故郷の冬はとても寒いのよ。海も空も荒れ模様で波も高くて。それでも彼は海を愛していた」

 氷は次第に融けて琥珀の海にゆらめく透明の模様が描かれる。

「アイラも」

 店主に視線をやると、とてもやさしく微笑んでいた。

「とても厳しい冬がくる土地だそうですよ」

 長い時間、彼女はただグラスを見つめていた。氷がすべて融けてしまい、琥珀色が金色の夕日に染まった海の色に変わると、そっと席を立った。



 店のドアを大きく開けた店主に尋ねる。

「高坂はもてたでしょう?」

「さあ、存じません」

「でも、このお店に何人も女性を連れてきたんじゃない?」

「いいえ、ご一緒された女性はたった一人、奥さまだけですよ」

 店主から目を離し、彼女は頬を染めひっそりと微笑む。その微笑は二十年前と変わらず美しかった。何も言わず顔を上げて夜の通りを歩きだす。

「また、お待ちしています」

 扉がそっと閉められた。


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