千野さん

絵や物語が好きです Twitter→@hirose_chino Tumblr→http://chinohirose.tumblr.com/

性別 女性
将来の夢
座右の銘 沈黙は金

投稿済みの作品

0

手帳

17/06/21 コンテスト(テーマ):第137回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:0件 千野 閲覧数:158

この作品を評価する

 半ば凍り付いた海原を背に、いまにも雪原に足を踏み入れんとする人間がいた。

 眠りに落ちる瞬間、ほんのわずかな時間の中で幻視するその姿は吹雪と暗がりのうちにかき消え、私は目を覚ます。幾度も繰り返し見てきた映画のような一連の場面はこのようにいつも同じ場所で終わる。それは私がいま存在しているこの場所で生きていく、ということを常に選択している限り、永劫に見続けるのであろう光景に他ならない。それを見失ったときに、文字通りの存在の死が訪れるということだ。

 朝、紙類や書物の散乱する部屋で目覚めた私が冷たい室内の空気に足先をさらすことを躊躇する間にも、「彼女」はすでに着替えを終えて紅茶を淹れている。その部屋にはもう物といえるようなものは殆どなく、そこは片付いていると評するにはあまりに殺風景な空間だった。その部屋を、否、自室の鏡をのぞき込む私の目は倦怠にまみれており、こちらを見据える彼女の目には諦観と決意が宿っている。まったく同じ人格と容姿を持つにもかかわらず、全ては対照的であった。私はいつものように手早く食事を済ませ、床の障害物、もとい自分の放置したあれこれをうまく避けつつ服を用意して順番に着ていく。この時間帯に活動することが苦手であるとはいえ、必要なことは前日の晩のうちに終わらせているから極端に急ぐ必要もない。だから彼女がそうしたように私もお茶を淹れた。

 小さな鞄と大きな鞄が一つずつ置かれた部屋の寝台に座る彼女は頻繁に時計を確認しながら、携帯端末で早朝のうちに知人たちへ送信した電子メールを見返している。言葉の用法に間違いがないか、誤解を招く表現がないか、確かめている。なぜなら彼女がこの部屋を出たら最後、もう彼らとは会うことも話すことも無くなるのだから。私達は上着を着て靴を履き、鍵を閉めたことを確認して駅へと向かう。ここまで私と彼女の影は常にぴったりと重なっていたのだが、それもこの横断歩道を渡るまでだ。私は街の中心部へ。彼女は空港へと向かう。北へと向かう彼女が纏う分厚い上着の影が、私の影から引き剥がされて別のものになった。異なる存在になった。それでも私たちは互いに同一のものであった。その矛盾が東から昇る太陽に溶かされ、蒸発して消えた。

 職場にいる間は彼女の姿を幻視することもないから、昼の空き時間にその足取りをぼんやりと想像することしかできなかった。就寝前にすることを終わらせた私は素早く布団へと潜り込み、そして、いつものように目を瞑る。

 どのようにしてそこへ辿り着いたのかは知らない。ただ彼女は白き平原を目の前にして立っており、海から打ち寄せる波はちょうどその靴のかかとに届くぎりぎりの場所まで近づいてきて、もう後には引けないのだということを示すようにまた戻ってゆくようだった。これから切る予定だった長い髪に付着した霜は老いた人間の頭髪を連想させる。吹雪は次第に激しくなり、ついに彼女はその一歩を踏み出した。その目に宿るものはもはや諦観などではなかった。郷愁、思慕、安堵、その他が溶け込んだ涙は冷え切った頬を伝うだけで地面に落ちることは無かったし、それは彼女が他の道を選べなかったのだということではなく、まぎれもない自分の意志で、自ら進んでここにやってきたのだということを図らずも証明していた。

 目覚めた私の部屋は相も変わらず散らかっていた。居住空間はもちろん清潔に保つべきだがそれはさておき、今のところ荷物をまとめて北方へ飛び立つつもりはない。私は今日も出社時間に間に合うように余裕をもって職場へ向かうつもりであるが、今ここにいない私はそれを選択しなかった、というただそれだけの話なのだ。そして私は選択の結果を毎日夢に見る。海と雪原の狭間で終わるという選択だけではなく、その他の無限に存在している他の選択肢も同様に。いずれの分岐にも共通しているのは「たった一つの願い」を自分が持っているということ、その内容を決して口には出さずに守り続けていること。この二つだ。たとえ永劫、誰にも理解されることがなくとも。雪原の先、氷の城へと向かった彼女が部屋を出るときに持っていた航空券は、この私が今いる世界では小さな手帳に代わっている。私はこれに物語を記すことでどこへでも好きな場所へと飛ぶことができる。

 選ばなかった選択肢の存在を認識するということはとても重要だ。自分には、この世界に存在する他の人間と同様に日々を積み重ねる自由もすべてを投げ打って消える自由もしっかりと与えられているということ。本当に大切なことはたった一つだけで、それを汚さない限り自分は生きていける。かえってそれが守られなければ、その時はさっくりと全てを終わらせてしまわなければならない。

 だから、きっと、大丈夫だ。
 あの海の向こうからまた陽が昇り始めるころ、私には確かにそう思えたのだ。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン
アドセンス