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木野 道々草さん

2017年1月から参加しています。よろしくお願いします。(木野太景から道々草に変更しました)

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ワイングラスと音楽の精

17/06/19 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:2件 木野 道々草 閲覧数:142

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 六月のある日、寝付けない夜だった。緊張をほぐそうとワインを飲んで、またベッドに横になってみた。しかしそれでも眠られず、何度も寝返りを打つ間に真夜中は過ぎた。一人暮らしのこぢんまりとした部屋が、薄暗い洞窟のように感じた。

 その洞窟が、白いランプを灯したように明るくなった。もう朝だろうかと時計を手に取って見ると、午前三時三分だった。私が生まれた時刻だ。この嬉しい偶然に気を取られたが、すぐにおかしいと思った。
 今は日の出前のはず、明るすぎる。
 体を起こすと、床の上にガラスの破片のようなきらきら輝くものを見た。光はそこから発していた。何だろう見覚えがあると眺めると、そのガラスの輝きの中から人の形をした光体がすっと立ち現れた。

「わたしは音楽の精です」
 美しい澄んだ声がした。
「あなたが落とした楽器は、このグラスハープですか」
 と目の前に、テーブルとその上にたくさん並ぶ足つきグラスを見せた。
「いえ、そういう場所を取るものは、この部屋には置きません」
 音楽の精はガラスの輝きの中にすっと消えた。
 冷静に受け答えしたことに驚いていると、音楽の精はまた現れた。
「それでは、このアルモニカですか」
 と目の前に、奇妙な楽器を見せた。透明なビーズを横一列に糸を通したように、椀状のガラスを大きさ順に並べ棒で通したような形状だ。
「いえ、そのような楽器は見たこともありません」
「そうですか」
 この一連の流れは、金の斧という物語にそっくりだった。しかし私は楽器を落とした心当たりがない。
「では、このワイングラスですか」
 床の上のガラスの輝きを指差した。覗き込むように見ると、飛び散った水に割れたワイングラスがあった。

 数時間前、私はそれを確かに落とした。
 ワイングラスに水を入れて、その縁を水で濡らした指で擦ると、高音の澄んだ響きがふわんと鳴る。耳に残る美しい音だ。私は不安なことがあっても、しかしそれを不安という言葉で自分の口からは出したくない。いつも口から不安が出そうになると、グラスの縁を濡らし、その口にふわんふわんと代わりに鳴いてもらった。どうにもできない気持ちがその綺麗な音とともに消してほしいと、そうしていた。
 
 黙っていると、音楽の精がベッドに腰掛け私の右手を握った。その手は冷たかったがすぐに私の手になじみ、慣れ親しんだ形のようだった。
「一人で夜に音を鳴らして、その不安はなんですか」
「何もない」
「不安がるあなたを慰めましょう。音楽の精ですから」
「だから何も」
「あります。何が不安ですか。聞かせなさい。そうですか、周りから遅れをとっている不安ですね。それがなぜ不安ですか。聞かせなさい。そうですか、それは――」
「うるさい」
 私は右手を大きく振り相手の手を払った。音楽の精は床に投げ出された。私の胸の内を話し出し、不安、不安と響かせてきたことに我慢ならなかった。
「音楽の精なら聞かせろではなく、音楽の一つも聞かせて慰めたらどうだ」

「それを望むなら、では」
 ふっと部屋がまた薄暗くなった。私の体は一瞬宙に浮いた後、ベッドに仰向けに寝かされた。ステージに照明が点く前の座席にいるようだった。
「そう固くならず」
 と姿がなく声だけがした後、トンと胸を軽くたたかれた。驚いて硬直していると、トン…トン…と間を置きながら、見えない手で繰り返したたいてきた。
 これは音楽がこれから始まるという合図だろうと目を閉じて、この後に続く音を待った。
 しかし何も始まらない。トン…トン…と繰り返す音だけが、暗いままの胸の上のステージで鳴り続いた。
 ただこれを聞かせるつもりだろうか。
 この単調なリズムは、遅いと感じるテンポだった。歩く速度よりも遅く、ゆっくりよりも遅く、ゆるやかよりも遅いような、トン…トン…という音だった。
 でも静かでいい。
 もしこれが音楽なら、音楽の精が奏でるこの音楽の静かなテンポに操られて、私の誰かに合わせようして走らせて狂ってしまったテンポが、落ち着きを取り戻したようだった。
 トン…トン…と穏やかに打つ音に、私の呼吸のリズムが加わって聞こえ始めた。当たり前にある呼吸の音が聞こえると思った。
 何だろうこれは。 
 不思議な心地だった。穏やかに打つ音と呼吸の音が進むのを聞き、やがて二つの音が交差し一つに重なるのを聞いた。そうしてトン…トン…と打つ音と呼吸の音が進んでいくそのどこかで、私はふっと小さくため息をついた。口の上に、小さな安心が生まれていた。

 三時間後には、すっかり明るくなった朝日の中で私は目覚めていた。窓を開けて招かれた風にうっすら肌を撫でられると、まるで真新しい体に感じた。
 ワイングラスを片付けようと床にかがむと、グラスの破片はきらきら輝いていた。それを見て、割れた殻のようだと思った。


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このストーリーに関するコメント

17/08/15 W・アーム・スープレックス

独特の世界観を描いた作品に、才能を感じました。音楽に通暁していないと、こうは書けないのでは。不安とふわんふわんの絡みも面白いと思いました。澱みなく流れるきめ細かな文体が主人公のまさに壊れやすい繊細な内面を語っているかのようです。『割れた殻』の示唆するものに、私もしばらく思いをはせてみることにします。

17/08/15 木野 道々草

W・アーム・スープレックスさん、ありがとうございます。

割れた殻=不安の殻です。音楽療法に関心があります。不安という厚い殻の中から出られない主人公に、音楽の手を借りさせ外からトントンと割らせたいと思い書きました。複数の要素を詰め込みすぎて、読み手を楽しませる物語としてはまとまりきれず、心残りでした。課題だなと思います。良かった点についてコメントをいただき嬉しかったです。

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