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沓屋南実さん

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性別 女性
将来の夢 小説家。 音楽を聴きながら、一日中本を読んで、小説を書く生活。
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フラウ・バッハ

17/06/19 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:0件 沓屋南実 閲覧数:127

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 わたしはとても悩んでいます。楽長先生の結婚の申し込みに「はい」と返事をして良いものか。
 彼は、ケーテンという小さな宮廷の楽長でありながら、ドイツ全土はおろか外国の著名な音楽家から尊敬されています。新しい作品、それも良いものばかりどんどん生み出されるのですから、音楽の神から選ばれた輝かしいお方に違いありません。そんな方から妻として求められることに、たった19のわたしは驚きと戸惑いでいっぱいです。
 それで、しばし返事を待ってもらうことにしたのですが、しかし、わたしの意図はうまく伝わりませんでした。彼は大きな体を縮めるようにして、小さな声で言いました。
「大丈夫だ、断られたとしても、父上や君を宮廷での演奏から外しはしないから。何も心配せずじっくり考えてくれたらいいよ」
 
 あれから、楽長先生が旅に出ている間に天に召されてしまった、フラウ・バッハであるマリア・バルバラさんのことを思い返しています。
 はじめて言葉を交わした日のこと。ケーテンのお城の裏庭で、彼女はお子さんたちとおしゃべりをしていらっしゃいました。私に気がつくと、「アンナ・マグダレーナさん」と名前を呼んでくださいました。
 音楽談義に花を咲かせ、楽長先生の新作を嬉しそうに教えてくれることもありました。
 バッハ一族の音楽会にも誘ってくださいました。ふたりでソプラノ二重唱をしたことも、懐かしい思い出です。
 もう一つ、忘れられないのは、わたしが失恋したときにフラウ・バッハに慰めてもらったことです。
「きっとまた、良い男性に巡り合えます。大丈夫。あなたの美しい笑顔と声は必ず誰かの心を捉えるはずですよ」
 フラウ・バッハは愛情深い、尊敬される方でした。わたしには、とうてい追いつける存在ではないのです。
 
 楽長先生には、そろそろ返事をしなければなりません。ちょうど、わたしがケーテンに行く用事があり、お城の裏庭で先生を待っていました。
 わたしは大きな木の下の、切り株のベンチに座って少しまどろんでいました。チェロのしなやかで優しいメロディがどこからか、聴こえます。いつの間にか、楽長先生がわたしのそばにいらっしゃいました。わたしは、胸の高鳴りを感じながらたずねました。
「この曲は、はじめて聴きます。チェロだけなんですね?」
「無伴奏なんだ、気に入ったかい?」
「はい、とても。豊かな気持ちになります」
「ありがとう。ところで、君はあれからどうしていたんだい?」
 わたしは、ずっとマリア・バルバラさんのことを考えていた、とありのままを告げました。彼は少し困惑したような顔をしました。
「わたしは、マリア・バルバラさんのような立派な人間ではありません。まだやっと20歳になるところで、常識もわきまえていません」
「こんなわたしで良いのかと、ずっと考えていました。だって、あまりにも立派な奥様ですもの……」
 楽長先生が知らなかった、わたしたちのとっておきの思い出を話し始めると、フラウ・バッハを深く愛していらっしゃったことが、楽長先生の瞳の輝きに見て取れました。
「バルバラは、ぼくのこれまで作った音楽のなかに永遠に生きている。演奏していると、作曲したころが思い出されて、彼女がいつもそばにいてくれたことを感じるんだ」
「最後は看取ってやりたかった」
「わたしは、駆けつけてフラウ・バッハのために歌い続けました。先生の歌を。目を閉じられたとき、まるで微笑んでいるようでしたわ」
「そうか。君もそばにいてくれたのだね。歌も歌ってくれたのだね」
 それから、今度は先生がわたしにフラウ・バッハの思い出を話してくださいました。ひとしきり話し終えると、満足そうに笑みを浮かべました。誰かに言いたくても言えなかったことをやっと言葉にできて、良かったとおっしゃいました。
「彼女も喜んでいる気がする」
「マリア・バルバラさんも喜んでいらっしゃいますわ」
 わたしたちは同時に口にし、次の瞬間顔を見合わせました。
 先生は、私の手を取りました。
「君は思っていた以上に素晴らしい人にちがいない。どうか、これからの人生を支えてほしい。改めて結婚を申し込みたい。フロイライン・アンナ・マグダレーナ・ヴィルケン、僕の妻になってください」
 わたしは、どんな顔をしていたでしょうか。全身が宙を舞うような、温かい春風に包まれるような感覚でした。大きく深呼吸をしてから、彼の茶色の瞳をしっかり見て答えました。
「はい。楽長先生」
 先生は、優しくうなずいてわたしを抱き寄せました。
「これからは、ヨハンと呼んでおくれ」
「わかりました、ヨハン」
 
 1721年12月3日。わたしはヨハン・セバスティアン・バッハと結婚しました。彼と彼の音楽を支える妻としての日々が、はじまったのです。



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