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つつい つつさん

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素晴らしい時間

17/06/17 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:0件 つつい つつ 閲覧数:235

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 そろそろレッスンが始まってから七五分経つ。終了まであと一五分だ。講師の高橋さんは期待と不安の入り交じった表情で私や私の指先を見ている。レッスン四回目の私のたどたどしい指先は、ボローンだの、キーンだの、ピィーンだの、不安定な音を紡ぎながらぎこちなく動いている。
 およそ一か月前からピアノのレッスンに通っていた。たまたま仕事の資料を探しに行った本屋の前で体験レッスンに参加しませんかと捕まったのだ。普段の私ならそんな不合理な行動は取らないのだが、その日は何故か集中力に欠き、気分転換をしたい気分だった。
 私は基本的に無駄なことなしない性格だった。それは昔からそうで、子供の頃もゲームやTV、音楽といった娯楽に全く興味をしめさず、学校と学習塾と英語塾に通うだけの生活だった。だからといって不満を持っていたわけではなく、友達が無意味にゲームや公園でサッカーなどをしているのを不思議な気持ちで眺めていた。将来ゲームの開発などするのであれば、ゲームに夢中になるのもわかるし、サッカー選手になりたくてサッカーをするのもわかる。だか、それを単なる余暇として行うのがわからなかった。なぜ、その時間の行動を自分で選択出来るのに、それをわざわざ無駄に使うのかが理解出来なかった。それは、三十も半ばを過ぎ弁護士という職で充実した日々を過ごしている今でも変わらなかった。
 こんな私の性格は、人間関係のいざこざは合わないのか、次第に仕事内容は企業間のトラブルを扱うことが多くなった。企業間のトラブルといっても、そこには人間間の思惑が当然絡むのではあるが、やはり法律がものをいう世界であって、膨大な知識や経験が必要ではあったが、仕事のことだけを考えて生きている私には向いている仕事であった。それだけに一か月前の私にはピアノに夢中になっている今の私を理解出来ないであろう。
 体験レッスンで初めてピアノを弾いた日、高橋さんは申し訳なさそうに恐縮しながらレッスンを始めた。なんでも、男性の生徒には女性の講師が教え、女性の生徒には男性の講師が教えるというのがこの教室の基本らしいが、生憎手の空いてるのが自分しかいなくて今日だけ我慢して下さいと謝った。私はそんなこと気にするタイプでもなく、逆に同姓で若い高橋さんのほうが気が楽だったので、体験レッスンが終わった後も高橋さんに教えてもらうことにした。
 体験レッスンを始めて三十分も経たずにわかったことは、私はこんなにも不器用だったのか、ということだった。学生時代に音楽や体育の授業で味わっていたことはあったが、その頃は自分に不必要なことがどんなに出来なくても、それが恥ずかしいとか悔しいとか感じたことはなかった。だが、この時はあまりの自分の不甲斐なさに猛烈に羞恥心をおぼえた。体験レッスンということもあり難しいことをやらされたわけではない。ただ、両手の人差し指を使って、高橋さんの言う通り音を鳴らしていくだけだった。それだけのことなのに私は普段やらない作業に体はかちこちに固まり、人差し指はプルプルと震え、レッスンを始めて一〇分で右手の人差し指がつった。その後、仕方ないので左手の人差し指一本でレッスンしたが、その指もほどなくしてつり、レッスンを続けるため、中指、薬指、小指と順々に使ってはつり、最後には親指までつったところでレッスンは終わった。帰るとき高橋さんは「自分の教え方が悪かったんです」と、泣きそうな顔でずっと頭を下げていた。そんな散々なレッスンだったから、私が本格的に生徒としてレッスンに現れたとき、高橋さんは本気で驚いていた。
 終了まであとわずか、私は一心不乱に鍵盤を叩いていた。一か月経ったとはいえ、不器用な私が急に上達するわけもなく、相変わらず両手の人差し指一本で弾いていた。ちらちらと腕時計を見ていた高橋さんは細い目を見開いて念入りに時間を確認すると、私を見て嬉しそうに言った。
「おめでとうございます。ついに、やりましたね」
 私もこみ上げる感情を必死で抑え、ジワッと涙で目が潤むのを感じながら「高橋さんのおかげです」と、高橋さんの右手を両手で強く握りしめた。そう、今日はじめて九〇分のレッスンの間、一回も指がつらなかった。前回は七〇分までは持ちこたえたので、ひょっとしたらという気持ちはあったが、いざ達成すると、こんな清々しい気分はなかった。私は意気揚々と、「来週もお願いします」と高橋さんに告げ、教室を後にした。
 はっきりいって、私がピアノを弾けるようになろうと、上達しようと、なんの意味もない。自ら選択して無駄な時間を過ごしていることは、自分でもわかりすぎるくらいわかっていた。だけど、なんて素晴らしい時間なんだ。なんて楽しい時間なんだ。私はレッスンが終わった直後だというのに、来週のレッスンの時間が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方なかった。


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