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あしたばさん

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こんなどうしようもない日には

17/06/16 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:0件 あしたば 閲覧数:210

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一日中煙るような雨が降り続けた、九月末日の今日もその日だった。思えば、朝から体調が悪かった。咳と鼻水を無理やり止めるため強力な薬を飲んだ。果たして要らない部分だけがよく効いてしまったようで、やっとのことで午前と午後の授業を終えた。事務をこなし、質問に来た生徒にもにこやかに対応できた。辛い一日だった。それでも、何とか自分の芯を崩さずに、一人の教師として振る舞えた。そう思っていた。
職員室から出ると、二人の生徒がたむろしていた。向井と田島。嫌なやつらに出会ってしまった。なぜだろうか、この時だけはお調子者の二人が気に障ったのだ。会釈と挨拶を投げてさっさと通り過ぎようとした私を、二人は呼び止めた。
「先生、絶対体調ヤバいでしょ」
「絶対休んだ方がいいですよぉ」
「そんな声で授業されても、よくわかんねえし、そもそもうつるかもしれねえから」
「なあ、むしろ迷惑というか、なんつうか」
顔を見合わせて、二人の横顔が曖昧に笑う。
これが悪意の言葉だったとは考えがたい。二人なりの優しさだと受け取るのが普通だろう。そうであるべきだ。まともな教師なら。
私はといえば、ここでキレた。何を言ったかも思い出せないほど、激しくキレた。廊下に響き渡った私の叫び声はどんなに醜かったことだろう。唇を尖らせて黙った二人を残して、私は足早にその場を去った。背後から突き刺さる、無数の視線からの逃走だった。
車に乗り込んで、乱暴に発進させた。霧雨を拭うワイパーが曇るはやさに負けていた。

冷めやらぬ興奮の中にいて、私は泣かなかった。勿論、不本意な行動を取ってしまった後の、悔しさとも情けなさともつかないあの感情は感じていた。明日、私はどんな顔で出勤すればいい?頭はガンガンと痛んで、雨に濡れた髪が気持ち悪い。帰り着いたら濡れながら玄関に向かって、寝る前には明日のプリントを作らなければならない。週末の飲み会は億劫で、私はいつまでも独り身だ。ところで、この当て付けめいて目に耳に叩きつける雨はいつ止むのだろう。私は教師であって、同様に人間なのだ。風邪をひくこともあれば、よくわからない文脈でキレることだってある。

思考と感情が混ざり合うとしたら、その重ね合わせは色の三原則に基づくのだろう。怒りの赤と、悲しみの青、保身の緑に、怠惰の茶色。不安は鼠色、自棄は臙脂、気掛かりな山吹色に、後悔の青緑。全てを合わせると、何もかも吸い込んでしまう真っ黒な憎しみが生まれるのだ。ほんの些細なこと、普段なら軽く受け流せてしまえるようなことが憎たらしくてどうしようも無くなったとき、私は思う。ああ、きっと、また限界がやってきたのだ。

日々の世俗的な関わりの中で、雑多な感情や思考が脳内に溢れかえって、押し潰されそうになることがある。そういう時は真っ暗な部屋にひとり閉じ籠って、ピアノを弾くことにしている。雷鳴の轟きのような曲ではなく、悲哀に満ちた曲ではなく、ただ淡々と流れる水のような、愛も憎も苦も楽もない、そんな曲がいい。自分の周りだけが蒸れるような暑さで、むせかえるように埃っぽくて、私と彼だけの真っ黒な世界を稲妻が時折真っ白に照らすといい。年老いた猫のように塗装の剥げた椅子に腰掛ける。右脚は真っ直ぐに伸び、左脚は椅子の足に沿ってだらりと垂れ下がる。目の前に横たわる白と黒に、二本の腕を伸ばす。
モーリス・ラヴェル、水の戯れ。
どす黒く澱んだ私の指先から、始まりの一音が放たれた。果てしなく澄んだ音色。幼い頃に見た、空気の張りつめた冬の朝の空のような。厚い雨雲の上に広がっているらしい、宇宙と地球の狭間の世界のような。
不可思議なパッセージ。奇妙な響きの和音。
跳ねて滑って流れて行く水の印象。清冽な音の奔流に、身も心も委ねてしまう。そう、私は水の精になる。超自然的な存在であるそれは、どこまでも純粋で、ちょっと目を逸らした瞬間に忽ち見失ってしまうほど透明なのだ。
熱いものが目から頬へ、顎へ、首へと伝ってゆく。微かに思う。ああ、この泣いているのを止めなければ。顔がぐしゃぐしゃになってしまう。服がふやけてしまう。涙は止まらない。なぜ泣いているのかも分からない。今日の出来事が悲しいから泣くのではない。惨めな今の自分が腹立たしいから泣くのでもない。私には、私が今こうして止めどなく涙を落としている理由が分からない。でも、なんとなく分かる。それは多分、パレットに幾重にも色を重ねた後の、後片付けのようなものなのだ。

ピアノ曲が終わる。さんざん熱い涙を流して冷めてしまった頭は、大抵もう次のことを考えている。さあ、お風呂に入って夕御飯の支度をしよう。八つ当たりしてしまった田島と向井にはちゃんと謝っておかないといけないな。
勢いよく窓を開けると、涼やかな風が涙のあとをひやりと撫でた。世界は私らしい透明な色彩を取り戻しつつあった。


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