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maimoさん

はじめまして、maimoです。2017年6月に初めて投稿させていただきました。noteにエッセイ、掌編、映画レビューなどを書いています。ご覧いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。 https://note.mu/myny

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音楽技術研究所 日直員募集

17/06/16 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:0件 maimo 閲覧数:210

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音楽技術研究所 日直員募集しています。

【採用人数】1名
【勤務日と時間】4月1日〜 平日8時半から17時
【報酬】応相談
【業務】日直員
【資格・経験】不問 ※誰にでもできるお仕事です

日直員としての仕事は簡単で、「誰にでもできるお仕事」という募集文句の赤字に嘘いつわりはなかった。住宅街の行き止まりにあるその建物へ面接に行くと、五十歳くらいの紳士が私に音楽は好きかと聞いた。資格・経験はとくに必要ないと考えていた私は手に汗を握り、こういった場合は多少なりとも自分を大きく見せたほうが良いのだろうか、などと不安を押し殺しながら「ふつうです」と答えた。では失礼しますと席を立ったそのとき、すでに採用は決まっていた。どうやら面接に招かれていたのは私だけだったらしい。

あとで春子さんが教えてくれた。その紳士がここで一番偉い先生だということや、実はかなりの女好きだということを教えてくれたのも春子さんだ。
「音大生の子たちは、みんなクビよ」
「えっ?」
「この仕事には感受性なんて必要ないの」
「そうですか」
日直員の仕事は、箱型装置と配線だけしかないギャラリーの掃除、エラー報告書の転送、一日一組あるかないかの来客対応だけなのに、今までのアルバイトの二倍以上の報酬を貰えた。私は固くしぼった雑巾ですみずみまで水拭きし、掃除機をかけ、ポットにお湯をわかしてお客様を待った。完璧に磨いたすりガラスの窓を開けると春の風が清々しく、緑道にベビーカーを押す若い母親や、颯爽と自転車で通り過ぎていく音大生たちが見えた。人々は毎日決まった時間に流れる「音楽」に慣れているのか、この建物を見向きもしなかった。
それは「楽器」と呼ばれている装置が生み出した音楽だった。春子さんの話によれば「旧式の人工知能」とのことだが、その音色はうっとりするほど心地よかった。九時、十二時、十五時の三回、私たちは教会の礼拝堂にいるような気持ちでそれを聞いた。来訪者が現れると春子さんは赤い口紅をひいた。お客様に施設の説明をし、メロディに解説をつけ、希少性をアピールして権利書を売るのだった。
「私どもは虚数の値を試す実験を行っております」
私には全然わからない会話がなされた後、ときどき春子さんの指示で領収証を発行することもあったが、そこには私が日常生活ではお目にかかったことがないようなゼロの数が並んでいた。

頬をなでる風が雨の予感をはらんでいた。気候のせいか、楽器のつくり出す音楽も冴えなかった。何の変哲もない小石があちこちへ転がったような、音楽ともいえない音楽を聞き終わると私は「そういえば、最近先生をお見かけしませんね」と言った。
「先生はドイツへ出張」
春子さんは手短に答えた。春子さんの機嫌はここのところずっと悪かった。口紅がはみ出していることを何度か伝えようとしたが、怖気づいてできなかった。
「だから最近、奥さんの送迎もないんですね」と私は言った。返事はなかった。

本格的な梅雨の頃から、原因不明の体調不良に見舞われるようになった。頭痛、目まい、胃痛、嘔吐、下痢、皮膚炎から始まり、倦怠感、不安感、焦燥感、飢餓感、目のかすみ、もの忘れ、悪心などなど、それまでは数日間に一度だった症状がやがて慢性的なものになり、欠勤することが増えた。耳障りなのは春子さんの小言だけではなかった。楽器の奏でる不穏な音が、ギャラリーの空間でいつまでもカタカタと踊っているのだった。
カウンセラーの勧めに従い、ときどき甘いものを食べることが、わずかながら私に幸福感をもたらす唯一の慰めだった。

先生はドイツのあとフランスやオランダ、ベルギーを訪れねばならず、しばらく帰国の予定はないと聞かされた。だから辞表を渡す相手は春子さんしかいなかった。
残された仕事を一手に引き受けた春子さんは、先生が来春に出版する予定の本を代わりに書いていた。言われるがまま、デスクに積み重ねられた文献の上に辞表をそっと置くと、目の前で赤い唇が動いた。血糊のような光り方だった。
「もしかしてあなた、結婚するの?」
「いいえ、ずっと前に破談になりましたので」
「あ、そう」

私は緑道ぞいのパン屋で働き始めた。
窓から差し込む光の中、雨上がりの子どもたちの声を聞きながら、パンやケーキの香りを胸いっぱいに吸い込むと、どうしてあの灰色の研究所から流れてくる音があれほどまでに美しく聞こえていたのか、まったくもって理解できない。もしかしたら「楽器」は、先生の不在中に壊れてしまったのかもしれない。
もはや一日に一回だけ、地割れのような低音の底から絞り出される旋律が、まるで助けを求める人の叫びのように私の耳の中へともぐりこんでくる。

そういえば元婚約者に貰った指輪を研究所のギャラリーに置き忘れて来たことに気付いた。しかし取りに戻るつもりはなかった。


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