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R

17/06/12 コンテスト(テーマ):第137回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:0件 薬包紙 閲覧数:283

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初夏の陽射しがギラギラと眩しかった。潮のにおいとうねる波のざわめき。灼けた熱い砂の上にしゃがみこんだ息子のRは目の前いっぱいに広がる海を睨んでいる。生まれて初めて目にした海は三才のRにとってあまりにも大きすぎたのだろう。はかり知れない強い磁力のような波が迫ってくる畏れにひたすら圧倒されている。同時にうずうずと呼び覚まされる衝動が沸き上がっているはず。この「おおきさ」を自分のものにしたい――私だってそうだったもの。はじめてこの目で海を見たときは。

あたし海に入りたい!
ぼくも、ぼくも!

背後の無邪気な弾んだ声。振り返ったRの目にとびこんだのは、同い年くらいの姉弟二人の裸。
アノ子タチ、イケナインダ。

Rは何度も独り言のように呟く。泳いでいる人なんか他にいないのに。水着も着ないで、あんな裸で笑い転げて。なんであいつらのママは叱らないの。
イケナインダ、イケナインダ、イケナインダ…
Rも裸になっていいのよ。

服を脱がそうとするのをかたくなに拒む。気分が悪いでもなし、どうしたんだろう、おかしな子。はしゃぐ声に耳をふさいでQは海をじっと睨みつづける。ギュッと噛みしめた下唇の白さ。

この子には武器を。使命のように感じたのはいつごろだったか。脆すぎるとしか思えない人見知りとひどい内気さ。それはまさしくこの血と肉を分けてできたことの証にちがいなかったけれど。
ひらがな、カタカナ、アルファベット。就園前に完璧にしよう。嫁を婢女程度に扱ってよしと信じて疑わぬ義父や、己のない夫のような者たちからなめられぬよう。将来その身を守る盾となるように。
強くあれ、つよくあれ、あらねばならぬ。毎回嫌がる泣きっ面を引きずっては押し込む柔道場。思い込んだらそのまま突っ走る、私はきわめて単純な母親だ。そしていくぶんヒステリックであるかもしれない。読み書きの特訓中よくRを怒鳴りつけては叩いた。それはいつも歯止めが利かない。
 
どんよりと曇った午後。朝から頭痛のつづくこめかみを押さえつつ、ひらがなを読み上げてはRに書き取らせる。
梅雨時のせまい団地の一室、むしむしとした息苦しさ。「へ」という文字が書けずに固まったRが私を苛立たせる。手を取りかたちをなぞらせてからもう一度。できない。なぜ? 繰り返す。何度も。広告チラシの裏の余白がひしゃげた「へ」で埋まっていく。
五十音中いちばん書きやすいでしょう。いい加減にして。できないなんて、いい加減にして。どうしてっ、こんな簡単な字が書けないのっ。こんな簡単な――
もたつき力が入らない、不器用なようすにカッとなるのを抑えらずとっさに奪い取った鉛筆の先を、力任せにRの手に突き刺した。にぶい弾力ごし、こんにゃくより薄い手ごたえ。

「へ」は左右の長さのバランスと約110°の角度の組み合わせが難しいのですお母さん。などと答えられるはずもなく。折れた鉛筆の芯が柔らかな手のひらに突き刺さるがまま、痛みより怒鳴る母親に怯え俯き震えている。文字で真っ黒になった広告チラシにぽたぽたと落ちてにじむRの目からこぼれた涙、鼻水。胃の底から苦いものがこみ上げる。目の前が暗くなる。今日もまた、やってしまった。
 
その調子でいきなさい。もっと上を目指さなくちゃね。やればできるんだから、Rにはちからがあるんだから。
(私の二の舞はさせない)
またそんな本ばかり読んで、くだらない。お前は同性愛者なの? 勘違いするな。馬鹿な消費者だ。本当のセックスとはそんなものではありません。それはまっとうな性ではありません。目障りだ家から出て行きなさい。この通帳のお金だけもってさっさと消えろ。
(私は烈しい)
毎朝起きるとどうしようもなく真っ暗な気持ち、また一日がはじまるのか。殺してやろうか。お母さんには生んだ責任があるしね、いっしょに死のうか。Rは病気だね。お母さんも病気だからわかるのよ。
(無駄に溜まったエネルギーが私を殺す)
もうすることがなくなった、と思ってRを生んだの。そしたら可愛くてねえ、自分の生んだ子がこんなにかわいくてかわいくて―――
(ああ夫さえ味方だったら)
すべて私のせいなんだろうか? 

裸になって遊んでもいいよR。いけなくなんかない。平気だから海に入っておいで。気持ちいいよきっと。
おずおずと水に入っていくR。きらきら光り出す目、ほころぶ口。やがて狂気のように喜び砂浜を転げまわっては戻ってくる。打ち寄せる波にたわむれにいってはケタケタと壊れたおもちゃのような笑いがとまらない。
 
笑いがとまらなかった何十年も前のあの日、あの風景がなぜいまもこんなに鮮明なのか。
そして母さんこそが笑ってくれることを。その笑顔を、僕はどんなに。どんなに欲しかっただろう。
 
あなたがだいすきでした。


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