1. トップページ
  2. いにしえの彼女のためのパヴァ―ヌ

吉岡 幸一さん

性別 男性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

0

いにしえの彼女のためのパヴァ―ヌ

17/06/11 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:0件 吉岡 幸一 閲覧数:225

この作品を評価する

 公園の真ん中には大きな池があり、その周りはジョギングコースになっていて早朝から夜まで人が走っている。
 今朝は絹糸のような小雨が降っていたが走る人はいた。アスリートと呼べそうな体つきの人は天候に関係なくいつも走り続けている。一周二キロ、走りやすいように弾力のある塗装のされている路面は足をやさしく守ってくれている。
 僕はアスリートではないが毎朝池の周りを三周だけ走っていた。秋に開催される市民マラソン大会に出場してフルマラソンを完走するためだ。練習場所としてはこの公園は最適だった。
 完走といっても入賞を目指しているわけではなく、六時間以内にゴールにたどりつくことが目標だった。
 去年は抽選に外れて走れなかった。その前の年は六時間を超えてゴールした。今年こそは、と思って練習に便利なこの公園の近くに引っ越してきて頑張ってはいたが、先の目標は別として今は朝の空気が温まっていくこの時間に公園で走るのが何よりも好きだった。
 ゆっくりと公園の周りを走っていくと木々の奥から小鳥の鳴き声が聞こえた。池には水鳥が泳いでいたり、亀が水面から顔を出していたりしている。よく見れば大きな鯉の泳ぐ姿も見ることができた。
 何も走っている人ばかりが朝の公園にいるわけではない。犬を連れた婦人もいれば、散歩を楽しんでいる高齢の夫婦もいる。体操をしている運動部の学生もいれば、自転車で駆け抜けていくスーツ姿の会社員もいる。さすがに早朝から遊具がある場所で遊んでいる子供はいないが、ときどきうな垂れてブランコに座っている若い女性を見かけることもある。
 そして今朝も池の畔にある石のベンチに座って若い男がサクソフォンを吹いていた。モーリス・ラヴェル作曲の「亡き王女のためのパヴァーヌ」だ。もとはピアノ曲だが、オーケストラで聴くことが多い。テレビのドラマやコマーシャルでもよく使われている。
 甘く切ない音色は潤った朝の大気に染み込んでいく。若い男がプロなのかアマチュアなのかわからないが、音の側に近づくと思わず走るのを忘れて立ち止まってしまいそうになる。
 男は池に向って吹いているので背中しか見えない。いつか誰かに聴かせるために練習をしているのか。自分自身に聴かせているのか。それとも、いにしえの愛しい人に向って吹いているのか。
 たとえ針のように細い雨でも水面に触れれば波をつくる。サクソフォンの音色に池の心が揺れているように思えてくる。
「おはようございます。嫌な天気ですね」
 走っていると毎朝出会う中年の男性が挨拶をしてきた。走りながら僕の横に並び血色の好い笑顔を向けてくる。
「もっと走りやすい曲を演奏してくれるといいんですがね。そう、運動会とかでよくかけられているような陽気な曲とかをね」
 中年の男はそう言いながら僕を軽々と追い越していく。
「カバレフスキーの曲のことですね。そういう元気な曲もいいですけど、ぼくは好きですよ。こんなしっとりとしたラヴェルの曲も」
 僕が追いつきながら答えると、中年の男は「えっ」と聞き返すように振り返ったが、それ以上のなにも言わずに駆けていった。すぐに僕を引き離し姿が遠くなっていった。
 一周回るころには雨も止んでいた。雲の切れ間からは光の帯が放射線状にひろがり始めた。
 この公園の近くに引っ越してくる二年前から僕はここでよく走っていた。先ほどの中年男性のように彼女は走る僕に話しかけてくれた。何度、肩を並べて走ったことだろう。何度、走り終えた後で近くの喫茶店で一緒に朝食をとったことだろう。
 ある時、好きな音楽の話になって彼女はラヴェルの「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」が好きと言った。
 好きな理由を話す代わりにメロディを口ずさんで聴かせてくれた。
「晩年のラヴェルは記憶障害にかかっていて、ある演奏会でこの曲を聴いて『なんて美しい曲なんだ、誰が作った曲だろう』って言ったそうなの」
 ただの逸話に過ぎなかったが、この話をしたあと彼女は泣きだした。そしてぽつぽつと自分の病気のことを苦しそうに話はじめた。
「あなたのことは忘れない」
 最後にそう言った彼女の笑顔は哀しいほどに爽やかだった。
この曲を聴くたびに、今は会うこともなくなった彼女を思い出す。恋に発展する時間はなかったが、この曲を聴きながら走っていると彼女がふいに背中から声をかけて来るのではないかと思ってしまう。美しい人、彼女が誰なのか名前すら知らない。教えてくれることもなかった。
 若い男はサクソフォンを奏でつづけている。池の周りを三周回り続ける間鳴りやむことはない。何を想って吹いているのだろう。いつか話しかける機会があれば聞いてみよう。きっとこの曲のように甘く美しい想い出話が聞けることだろう。
 僕は走りながら耳を澄ませている。空は青く晴れていく。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン
アドセンス