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ケロロさん

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小さな幸せ

17/06/10 コンテスト(テーマ):第137回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:0件 ケロロ 閲覧数:191

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「わあ、海だわ」
 瞳さんははしゃぐように言った。
 目の前にはどこまでも広がる青い海。沖には入道雲がそびえ立ち、浜辺は多くの人でにぎわっている。午後の日差しは強く、潮を含んだ暑い空気が体にまとわりついてくる。
 鎌倉で行われている障害者の交流イベントにボランティアとして参加した僕は、車いすに乗った瞳さんの付き添いになった。瞳さんは生まれつき足が悪いという。青いワンピースに麦藁帽子。少しふくよかな体つきをした瞳さんは、五十歳という年齢よりは若く見える。
「海の方へ行ってみましょう」
 そう言う瞳さんを乗せた車いすを押して、浜辺へ降りた。
 砂が細かく、進もうとすると前輪が砂にめり込んでしまう。ハンドルをぐっと地面に押しつけて、前輪を浮かせながら歩いた。白い腕に夏の太陽が容赦なく照り付けて痛い。大粒の汗が頬を伝い地面へ落ちる。ハンドルを持つ手にめいっぱい力をこめて、波うち際に沿って歩いて行った。
「暑いわねえ」
「そ、そうですね」
 後ろを振り向く瞳さんの、麦藁帽子のひさしからのぞく目が僕を見つめた。つい視線を海へそらしてしまう。沖を行くヨットが何艘か見えた。
 前から、母親と、母親に手を引かれた小さな女の子が歩いて来た。女の子は水着を着て、髪がべっとりと濡れている。今まで海に入って遊んでいたのだろう。
 すれ違った親子を見て、今朝、僕を送り出した母の言葉を思い出した。
「きっと楽しいわよ。何かあったら電話をちょうだいね」
 高校を中退して半年。ほとんど家の中にこもりきりになっていた僕は、最近ようやく予備校に通い始めた。大学には行きたい。そう思っての決断だった。母は、そんな僕に、新聞に載っていたボランティア募集の広告を見つけてきた。いい気分転換になる。そう勧めてくれたのだ。知らない人ばかりの所へ行くなんて。最初はためらったけれど、思い切って参加することにした。
 大きな波が足元までうち寄せる。スニーカーの中に水と砂が入って、じゃりじゃり気持ち悪い。車いすの車輪も、砂交じりの海水に洗われた。
「水に触りたいわね」
 瞳さんの言葉にうながされ、海の方へと車いすを押す。僕の足はすっかり海水に浸かってしまった。
「足だけでも、入れるかしら……」
 瞳さんに教わりながら、僕は身体の前から瞳さんの脇に腕を回し、抱きかかえるようにして立たせようとした。しかし、身体は持ち上がらない。三回ほど力を込めたが、無理だった。
「やっぱり駄目ね」
 ちょうどそのとき、傍で様子を見ていた別の男性ボランティアが駆け寄って来て、手伝ってくれた。二人で瞳さんの左右に立ち、肩を組むように支えながら、瞳さんを立たせた。
「冷たくて気持ちいいわ!」
 きらきらと光る水に足を入れ、砂浜に立った瞳さんは、大きな声をあげた。二度、三度、うち寄せる波が足をぐっ押しては、沖へさらおうとする。

「海に入るのなんて、何年ぶりかしら」

 瞳さんは小さな声で呟いた。うっとりとした表情で、まっすぐ沖を見つめている。
 ――そうか。車いすで生活していると、海に来る機会も減るんだ。介助者がいなければ、海の水に触れることも難しいだろう。
 そう思うと、僕にとってはあたり前のことが、瞳さんにはとても大きなことだと気がついた。何だか、人間のささやかな幸せに触れた気がした。
「冷たくて気持ちいいですね」
 僕は、瞳さんの方を向いて言った。
「そうね」
 瞳さんも笑顔で僕を見た。
 顔にあたる浜風が、つんとする潮の香りを運んでくる。七分丈のジーンズの裾がびちょびちょに濡れてしまったけれど、気にならなかった。
 僕の身の回りにも、きっと小さな幸せはたくさんあるんだ。そう思うと、ちょっと、頑張る勇気が湧いてきた。


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