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笹峰霧子さん

今年は投稿できるテーマがあればいいな。

性別 女性
将来の夢 認知症にならず最後まで自分で歩けること
座右の銘 自分の意思は伝える 物腰は丁寧に

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海を愛した男

17/06/07 コンテスト(テーマ):第137回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:0件 笹峰霧子 閲覧数:150

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 加奈子の住む町は海と山に囲まれていてレジャーといえば西方面の山か南方面の海へのドライブ。西方面と南方面では行く方向は違っても、行き着く先の県は同じというのが面白い。
海で思い出すのは一昔前は海水浴のこと。子供時代に加えてわが子が幼い時海に連れて行って泳がせたことだ。
 
 その頃の海は海水がとてもきれいだったが、現在は海水の悪化が影響しているのか海水浴場は閉鎖され、海岸へ降りて行く道さえわからなくなっている。海よりずっと高く位置する国道から海を眺めたり、海浜公園から続く海を眺めることしかできなくなった。

 真珠や魚の養殖が盛んな地方なので内海は養殖筏で占領されている。
お陰を被っているのは良い面もあるわけで、真珠が安く手に入るし活きの良い近海魚も豊富に手に入る。鯛などはあまり食べたいと思わないほど出回っているけれど、郷土料理として鯛めしというのがあり、他所からの客にとっては珍しく食べたい料理の一つになっている。

 
 加奈子は一年前に死んだ秀夫の言葉を思い出していた。
秀夫は勤め先の院長の護衛として付き添って出かける海で釣りをしたと懐かしそうに話した。
 彼の懐古話を聞きながら、加奈子はもし秀夫と一緒になっていたらどんな生活をしていたのだろうと想像していた。海で育ったわけではない秀夫だけれど、大学を卒業して就職した先は海の傍の高台に建っている病院だった。体育系の彼の肉体は逞しかった。甘い香りを放つ百合のような男だったと、加奈子はかつて追憶の中で描いていた面影を振り返っていた。

 
 加奈子は28歳のとき縁あって高校の同級生と結婚した。奇しくも夫は海の男だった。
一緒に海に行った時、寄せては返す波の音を聞いて幼少の頃枕元で聞いた波の音のような気がすると言ったことがある。
夫が育った家は海端にあったと聞いていた。

海には縁のない加奈子は海の男の懐かしさはわからなかった。
加奈子自身は山の麓で生まれ育ったので里山へ行くと穏やかな風景に安らぎを感じていた。
 
 生育歴の異なる二人は相反する面を多々持っていた。金銭的感覚も違い、海岸育ちで昔ながらの律儀な教えを守ろうとする四角四面の夫、大人になりきれない自由奔放な加奈子。その二人が仲良く行くはずもなかった。相手を間違えたかのようなふたりだった。

 加奈子の夫が死ぬ二か月前に入院していた病院は海の傍に建っていた。年が明けたばかりに転院した海が見える病院だ。
加奈子は夫以外身寄りもなく、毎日独りで病院に通って世話をした。
病室の窓から見る海も夕方病院から帰る時に駐車場から見る海も怖いほど寂しかった。
 
 三月終りになって桜が少しずつ咲き始めていた。
加奈子は夫の代わりに波の音を聞いていた。
口には出さないが心密かに夫が元気で退院できる日が来ればいいなと願っていた。

 加奈子の夫が亡くなったのは五月に入って間もなくのことだった。
桜が散って新緑の季節に入っていた。
美しい若葉を味わう間もなく、心忙しい仏事に追われて時が過ぎて行った。
梅雨が通り過ぎたことも夏祭りが終わったことも加奈子は記憶になかった。

 
 初盆の仏事を終え一通りの行事が終ろうとしていた。
 
 20代初めに出会った人が目の前に現れた。その人こそ秀夫だった。
秀夫は若い頃出かけた海での思い出を懐かしそうに話した。私の元を離れて行ってからのことだ。
加奈子は秀夫の意気揚々とした若い時代のことを想像すると羨ましかった。

 同時に海岸育ちの夫が山の麓の加奈子の家に婿入りして農作業をしていたことを思い出した。
夫との40年間の暮らしは幸せとは言えなかったけれど、夫の庇護のもとで子供を育て安心して暮らせたのは有り難いことだった。

 夫の死後一年半経ったころ、秀夫の弟から兄貴が死んだ、それも一週間意識のないままに逝ったという知らせを受けた。
加奈子は夫が亡くなった時より衝撃を受けていた。
彼の思い出となるものは何の形もないだけに言いようのないやるせなさを感じた。
彼がくれた優しい言葉の記憶が消えていくのも怖かった。

 
夫と秀夫が居なくなってから、加奈子は完全に独りになったという気がしていた。
折しも加奈子を慕っていた老犬も行倒れとなっていなくなった。
 
鎖のように連なった哀しみが五月雨のように加奈子の心を引きずっていた。


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