犬飼根古太さん

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性別 男性
将来の夢 どれだけ掛かっても作家になることです。
座右の銘 井の中の蛙 大海を知らず されど、空の深さを知る

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田園

17/06/04 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:0件 犬飼根古太 閲覧数:165

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 オーストリアの首都ウィーンから遠く離れたアルンベルク村は、楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが「通った」村として有名だ――と村民達は思っている。ベートーヴェンがウィーンにあるアン・デア・ウィーン劇場での演奏会に行く際、普段通っている街道ががけ崩れで封鎖され、その馬車がこの村を通過したらしい。
 無論通過しただけで滞在したわけではない。
 けれどそんなことは、村民達には関係ない。この村の少年ヨハンにとってもそうだった。
 なんとなく物心ついた頃から聞く「ベートーヴェン」という存在が、おじさんの名前のようにたびたび聞くため、身近に感じていた。

 ――だからそんな少年が幼心に、音楽家への夢を描いたとしても、それほど不思議なことではなかったのかもしれない……。


 ただし、そう感じるのは、きっと世界を俯瞰できるような目を持つ神様みたいな存在だけだ。
 もしくは、当事者でない赤の他人か。

 神様でもなければ赤の他人でもない、少年の肉親は、その夢――音楽家への道を聞いて、酷く反対した。
 それはもうとっても酷く。
 どれくらい酷いかって? 少年が三日三晩泣き寝入りするくらいさ。

 都市から離れた村の生活は素朴だけど、残酷だ。
 都市では歯車などと揶揄されるような生活も、ここでは贅沢。歯車のように規則正しく動いたとしても、不規則な自然が、冷害を、大雨を、日照りをもたらす。
 そもそも村には学校もなければ、音楽家もいない。宿さえない小さな村だ。昔からずーっとそうなのだ。

 少年は、青年と呼んでも差し支えないくらいの年になった。
 まだ夢は諦めきれない。
 農村に住む人達は、とっても我慢強いんだ。都市のように店がスクラップアンドビルドを繰り返して移り変わっていかない。隣の鍛冶屋はずっと鍛冶屋でひい爺さんまで遡っても鍬を研いでいた。
 村の少年の心は、青年の体になっても移り変わらない。
 彼の音楽への憧れと夢は、「おーけすとら」の指揮者という具体的なものに成長していた。

 オーケストラというのは、たくさんの人間が、様々な楽器を、みんな一緒になって演奏するもの。そう彼は理解していた。
 聞いたことは一度もない。生でも間接的にでもだ。そもそも音楽プレイヤーなどない時代だ。
 ――音楽は生で聞くしかない。


 青年は、ヴァイオリンを弾く代わりに鍬を握り、楽譜を書く代わりに畑を耕した。
 やがて屈強な肉体を手に入れた。わずかばかりとはいえ蓄えも作った。
 本来であれば村の中から年の近い女と結婚して子供を作り、暮らすのに使うべきわずかな蓄えだった。
 だが決意は固かった。
 彼は、まだギリギリ若く。
 彼の両親は、もう老いに差し掛かっていた。
 彼の両親は青年の目に宿る、少年のような純粋な憧れを見て、溜め息とともに頷き、旅立ちを見送った。

 両親は外の世界のことをあまり知らないけれど、長い人生で理解していることはあった。
 外の世界は、音楽のように煌びやかでも、優しげでもなく、非情で残酷であるということ。
 青年と呼ぶ年齢になり、たこやひび割れだらけになった手で、楽器の演奏を習得したりできないということ。
 ――いいや、そもそも、オーケストラの演奏をただの一度も聞くことはできないだろう、とも。


 青年はウィーンに着いた。
 あの隣家のおじさんのように感じていたベートーヴェンが滞在していた街だ。大都市だ。
 当然音楽学校もある。オーケストラをやる劇場もある。
 青年ヨハンは話しかけてみた。誰もがベートーヴェンのことを知っていた。誰もがヨハンの生まれ故郷のことを知らなかった。

 ヨハンは、音楽家へとなる第一歩として劇場に向かった。
 あのベートーヴェンの曲をやるというのだ。
 だが金はなかった、見るからに貧しそうな服装のヨハンは追い返された。
 そんな彼は、自分と同じか、それよりもっと貧しそうな格好をした少年達の一団が、劇場の警備に案内されるようにして、裏口から劇場内に入るのを見た。
 ついていこうとするヨハンを見たその警備員は、ちょっと怖そうな顔を浮かべたが、ヨハンの質朴で貧しそうな格好を見て、何も言わずについていくことを許してくれた。
 連れられてついた先は、劇場の屋根裏部屋ともいうべき場所。舞台はほとんど見えない。ただ明かりが下から漏れるだけ。音も歪み、くぐもっている。

 でもヨハンは、「ベートーヴェンの『田園』だ」と警備員が説明した曲を聞いて、涙を流した。他の少年少女達も感涙していた。

「音楽家を目指す誰もが、その夢を目指せるほどお金持ちというわけではない。けどそれは才能や熱意がないということではないんだ」

 警備員の独白のような声が、音楽のようにヨハンの胸を打った……。この光景は昔から続いているのだろう。


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