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笹峰霧子さん

今年は投稿できるテーマがあればいいな。

性別 女性
将来の夢 認知症にならず最後まで自分で歩けること
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思春期の挫折

17/05/22 コンテスト(テーマ):第136回 時空モノガタリ文学賞 【 音楽 】 コメント:1件 笹峰霧子 閲覧数:264

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 音楽とは私にとっては愛着でもあり、悔しさでもある。幼い時からピアノを習い、自己主張をすることもなくそれが自分に与えられた道だと思って音楽大学を受験すべく、青春を犠牲にして猛練習をしていた。
 今になって思えば、たかが四年制の音大を卒業したとしても、田舎の音楽の先生かピアノ教室を開くぐらいしか能はなかったと思う。それならば、塾を経営していたのだから良いではないかと言われても、高校卒業後晴れて音大に入学して四年間希望のレッスンを受けるのとそうでないのとでは、自分の気持ちとしては天国と地獄ほどのギャップがある。

 時々、今の年になっても、もしあの時スムーズに音大で学んでいたら、なんと幸せだっただろうと悔しく思う。高校三年までクラシックの曲はある程度マスターして受験の準備をしていた。高校の時のピアノ発表会ではベートーベンの悲愴をとりで演奏した。私はあのときが自分の人生で花だったと思う。受験期に第一志望の音大は上京もできないほど体力が消耗し、二次で受けた国立の音楽ピアノ科は制限の三年まで休学して退学を余儀なくされた。

 高校三年の夏休みに、希望に満ちて音大の講習を受けに上京した。記憶では一週間ほどだったろう、同じ志を持った仲間と学んで、来年又会いましょうと言って別れた。彼女らは皆合格したのだと思う。手紙が来て、別の学校へ行ったの?と書かれていた。
 
 私はその手紙を破り捨てることはなく、母に見つからないように、古い箪笥の中に押し込んで隠していた。気分が落ち込んだときには、「死にたい」と紙に書いてこれも箪笥の中へ仕舞った。多分母はそれを知っていたと思う。

 それが私の人生の最初の挫折。当時市で労音という定期的なコンサートが催され、有名な演奏家が来ての音楽会があった。私はその会にずっと出られなかった。聴くのも嫌だった。

 
 20代の終りに結婚して子供ができ、二年後に次女が生れた。そのころにはもう音楽への未練はなくなっていた。新しい車を買ってもらい、車の中でクラシックではない曲のカセットを買って聴いたり、聴きながらドライブする楽しみができた。
 
 夫が勤めの合間に畑仕事をしても、出勤前に筍を掘って集会所に持って行くのも手伝ったことはなかった。私は洋服屋で好きな生地を買って、仕立ててもらったワンピースを着て車でドライブしたり、スカートをひらひらさせて自転車に乗って買い物に行ったりしていた。

 そんな身勝手なことをしていたから、子育ては下手だった。子供の将来のことを考えて方向付けをしたり、子供の心を推し量って指導することなど思ったことはなかった。

 
 もし私が順調に音大に入学していたらその後の人生はどういう道を進んだのだろう。
 結局は同じように実家に戻り、音楽教師として高校へ勤めるか、音楽教室を開いていたかもしれない。でも気持ちとしては同じではなかったと思う。
 資格を持ってする仕事とそうでない場合とは違う。結局ピアノを教えて収入にはなったけれど、ただそれだけのことで堂々と発表会を開いたりする意欲はなかった。


 人生の最初に躓くと後の人生はどんどん別の方向へと流れてしまうものだ。
 夫との出会いも別の人だったかもしれないし、初恋の人と結婚していたかもしれない。でもそれが良かったのか巧く行かずに離婚していたかもしれない。
 確かなことは、もし私が音大に行って都会で配偶者を見つけていたとして、それは母と晩年まで一緒に住むことにはならなかっただろうし、今のふたりの子供も別の子供だったろう。孫も今の孫ではなく…。

 今はどこで誰とどういう暮らしをしているだろう。運命とは定められているものだろうか。
 最初から音大に行けないとわかっていたら病気もしなかったであろうし、もっと自分にふさわしい境遇を考えたかもしれない。

誰が悪かったのか。親とピアノ教師が勝手に私の進路の方向付けをしたのがいけなかったのか。自分の未来なんて誰にもわからないのだ。
でももう一度生まれ変われるものならば、楽譜を抱えて音大へ通い、個室でピアノを習っている自分を想像している。


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17/05/22 笹峰霧子

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