1. トップページ
  2. こぼれ桜

吉岡 幸一さん

毎日、絶望しています。

性別 男性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

1

こぼれ桜

17/05/09 コンテスト(テーマ):第105回 【 自由投稿スペース 】 コメント:2件 吉岡 幸一 閲覧数:279

この作品を評価する

 息を飲むような満開の桜の木の下で妻と大家さんが話している。話し声は風に運ばれてアパートの二階の夫のもとまで届いてくる。夫は窓辺に腰かけ桜と妻と大家さんをぼんやりと眺めている。桜の奥にある川はコンクリートの壁に囲まれていて川底が浅い。とても生き物が住んでいそうには思えない。
「こんなにりっぱな花が咲くんですね」
 妻は花びらの先に手を伸ばし、そっと触れている。
「毎年この木は花をいっぱいに咲かせるんですよ。見事でしょう」
 大家さんはまるでこの桜の木が自分の物のであるかのように自慢している。
「ほんとですね。でもこの辺りには桜がこれ以外には見当たりませんね」
「そうなのよ。町内ではこの一本だけなの。だからかしら、わざわざこの桜を観に来る人はいないのよ。みんな町の人は遠くの桜の名所にいってしまうから」
「そうなんですね。うちは部屋から見えるから、他所まで観に行かなくても満足かな」
 妻はそう言いながら窓辺の夫を見上げて微笑む。夫は気づかないふりをしている。
 先月、この町に引っ越してきたときにはまだ桜に花は咲いていなかった。夫は桜の木があることすら気づいていなかった。桜の花は突然、満開になって夫の前に現れた。
「桜が部屋の前に咲いているぞ」
 ある朝、カーテンと窓をかけた夫は打ちのめされたように妻に言った。
「気づくの遅いわよ」
 妻は笑顔で答えた。呆れたというより、安心したような声の響きだった。
「ああ、そうか」と、夫は言ったきり黙ってしまったが、妻はなにも言わなかった。ただ見守っていた。
 大家さんが去ってからも妻は桜の木の下にたたずんでいた。花を見上げたり、川を見下したり、遠くの山と街並みを眺めている。ときどき夫のほうを見ては微笑んだ。
 学校帰りの小学生の男の子がふたり肩を並べて通り過ぎていく。桜を見上げることもなく、手にはゲーム用のカードを握っている。妻は遠ざかるランドセルを見つめていた。瞬きすることも忘れ目で追っている。
「ねえ、髪の毛についているよ」
 いつの間にかそばに来た小学生の女の子が妻の髪の毛を指さしていた。桜の花びらが二片肩のあたりに重なってついていた。
 妻は右手でそっと花びらを摘むとそれをポケットにしまった。
「もしかして一年生なの」
 妻がしゃがんで聞くと、女の子は指を二本たてて首をふった。
「おりこうさんね」
 頭を撫でると女の子は不思議そうな顔をして笑った。そして駆け出していった。途中振り返ると元気に手を振って、また駆け出した。
 妻も手を振っている。おりこうさんね、と言った妻、何がおりこうさんなんだろうか。
 今年のはじめに娘が亡くなった。生きていればあの子と同じ小学二年生になっていた。「生きているだけでおりこうさん」と、夫は桜の木の下でたたずむ妻を眺めながら呟く。呟きは妻には届かない。花風のなかに溶けていく。
「おい、寒くないか。風が強いだろう」
「大丈夫よ」
 そう言いながらも妻は部屋に帰ってきた。3LDKの間取りは二人で住むには広すぎる。子供が使っていた学習机やランドセルや洋服などはすべて実家の母に預けている。邪魔だったわけでも、忘れたかったわけでもない。愛おし過ぎて簡単に忘れられるわけなどない。
「後であの場所に行こうか」
 夫が言うと妻はそっと頷く。川沿いの道を少し下ったところにあの子が事故にあった場所がある。毎日花を手向けてはふたりで祈っていた。
 妻はポケットから桜の花びらを取りだすと、夫の鼻先に持っていき手をひらく。
「いい香りでしょう」
 うん、と夫は頷くと妻の手をきつく握る。
「桜の花の命は短いけれど、来年になればまた花が咲くだろう」
「そうね。でも、今年の花は今年だけの花、来年咲く花は同じ花ではないわ」
 夫の手の力が抜けていく。妻は夫の手が離れないように力を込めて握り返す。
「ありがとう。きっと今年の花も来年の花も、どちらも可愛い花よ。ふたりの大切な花なんだから」
 風に飛ばされた桜の花びらが部屋に入ってきてふたりの肩に舞い落ちる。夫と妻は二片の桜の花びらをきつく握りしめながら見つめ合う。妻の左手は優しくお腹をさすっている。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

17/05/09 まー

視覚的な美しさと哀感が重なって心地いい気分に浸れました。(なぜか吉岡幸一さんのこの手の作品を読むと良い酒で酔ったような感覚になるんですよね。不思議です 笑)

17/05/09 吉岡 幸一

まー様
自由投稿スペースの作品にまでコメントをいただきありがとうございます。感謝いたします。

ログイン