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そらの珊瑚さん

🌼初めての詩集【うず】を上梓しました。  (土曜美術出版販売・現代詩の新鋭シリーズ30) 🌼小説や詩、短歌などを創作しております。 🌼作品を置いています。よろしかったらお立ち寄りくださいませ。 「珊瑚の櫂」http://sanngo.exblog.jp/14233561/ 🌼ツイッター@sangosorano 時々つぶやきます。 🌼詩の季刊誌(年4回発行)「きらる」(太陽書房)に参加しています。私を含めて10人の詩人によるアンソロジー集です。アマゾンでお買い上げいただけます。      ✿御礼✿「馬」のオーナーコンテストにご参加いただきました皆様、ありがとうございました。

性別 女性
将来の夢 星座になること
座右の銘 珊瑚の夢は夜ひらく

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江ノ電とわたし

17/04/10 コンテスト(テーマ):第131回 時空モノガタリ文学賞 【 電車 】 コメント:2件 そらの珊瑚 閲覧数:316

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 ナナは、別居中の夫と藤沢駅で待ち合わせた。
 日曜日の雑踏の中で、見覚えのある紺のPコートにキャメル色のコットンパンツをはいた夫がやってくるのを見つける。――また大学生みたいな格好して。遠目には五十過ぎの中年にはとても見えなかった。ナナより十歳年長の夫は、化粧をしないナナと同年齢か、へたしたら年下に見えた。
「ごめん。待たせたかな」
「ううん、今さっき来たとこだから」
 嘘だった。約束の時間より三十分早く着いていた。そして行き交う人を観察していたのだった。イラストレーターという仕事柄もあって、ナナは人間観察を趣味としていた。待ち合わせをしている女の子の表情がパッと華やぐ。その視線の先で手をふる男の子。そんな風に目に留まった人のスケッチを頭の中に描く時間は楽しかった。
 おそらく夫婦として最後の旅に、――藤沢から江の島までの約十キロの江ノ電の道のりを旅というにはそぐわないかもしれないが、彼が自分を見つけるより先に、自分が彼を見つけたかったのだ。今度は。
 絵を描く事だけしか持たなかった十九歳のナナを、当時編集者だった彼が誰よりも早く見つけた。持ち込んだ出版社で、ナナの絵を認めてくれたのは彼が担当していた雑誌だけだった。最初は小さなカットからだったが、原稿料が出た。それで生活は出来なかったのでアルバイトもしていたが、とあるイラストレーションの公募の大賞に選ばれてから、イラストだけで食べていけている。あの頃、陰でナナのことを「枕営業している」という噂を流す同業者がいて、まだ男女の仲でなかった彼にそれを愚痴ったことがあった。出る杭は打たれる運命にある、とでも云って一緒に笑い飛ばしてくれると思っていた彼が、しばらく黙ってから口を開いた。「その噂、僕も迷惑してるんだ。だって今更ナナさんのこと、好きだって云えないでしょ」黒ぶちの眼鏡の奥がまったく笑っていないのを見て、それが冗談でないことをナナは理解した。彼がナナを見つけてから、十年という歳月が流れていた。編集者として彼に寄せていた信頼が、愛情に変わるまでそれからそんなに時間はかからなかった。
 藤沢駅から江ノ電に乗る。この沿線にナナの故郷があった。二両編成の緑と黄色の小さな車両が街の路面をゆっくりと進む。まるで玩具みたいなこの電車はずっと変わらない。ナナが出版した唯一のイラスト本『江ノ電とわたし』は、夫が編集し、そこそこ売れた。今思えばあれが二人のこどものような気がしている。
 車窓から海が見えてくる。七里ガ浜だ。
「ねえ、知ってた? ナナって七里ガ浜(しちりがはま)の七ってこと」
 ナナの本名は漢字で七と書く。
「へえ、そうなんだ。知らなかった。ふうん、なるほど」
 十五年も夫婦でいても、知らないことはたくさんあった。夫から「別れてくれないか」と切り出されるまで、夫が別の誰かを見つけたことを妻は知らなかった。
 途中下車し、少し歩いて寺の門をくぐる。水子供養の寺だった。結婚して三年目にナナは死産した。桜が咲き始める浅い春に。その頃になると二人そろってこの寺に参った。
「二人でここに来るのは最後にしよう」
「なんで?」
「生きていれば何歳だねって、死んだ子の年を数えるより、あなたは生まれてくる子の年を数えなきゃ」
「知ってたのか」
 彼の愛人のことをナナは知っていた。まだ二十代なかばの若い編集者。「先生が描かれる絵、好きです」と云った、はにかんだ笑顔を思い出す。あの言葉は嘘だったと、憎もうとしたけれど無理だった。それは自分を不幸にするだけの愚かしい行為だと気づいたのだ。
 死産してから夫への気持ちは離れてしまったのかもしれない。退院してすぐナナは夫と寝室を別にした。夫が立ち入らない寝室にはベビーベッドを置いた。着せるはずだった産着も、とっておいた。六年目には赤いランドセルを買って置いた。そんな風に悲しみを弔うのは、自分ひとりが良かった。
「噂には羽があるのよ。どこへだってとんでゆくんだから、生まれましたっていう赤ちゃんの顔入り年賀状なんか、送らないでよね」
「わかったよ」
 寺で心ばかりのお布施をする。住職が経を唱え、そのあと座敷でお薄をいただく。座卓を借りて、ナナは折り目の入った薄い離婚届に署名捺印をする。それはまた小さく畳まれ、夫のコートの胸ポケットに仕舞われた。
 人はこんなにもあっけなく他人になるんだと彼女は思った。
 さみしいと同時にどこかほっとしていた。
 ひとりに戻る。
 それは終着駅なんだろうか。
 それとも始発駅なんだろうか。
 そしてやはり自分には絵しかないんだと思う。
 帰ったら江ノ電の絵を描こう。線路の向こうに、黄色い菜の花を揺らすのもいいかもしれない。江の島の海を背にして、ホームで待つ三つ編みの女の子でも描いてみようか。ナナの絵筆が心の中で動き始めた。


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このストーリーに関するコメント

17/04/10 そらの珊瑚

画像は江ノ電です。
「街画ガイド 街の画像が見つかるフリー写真素材集」さまよりお借りしました。

17/05/08 泡沫恋歌

たまたまだけど、春の電車で子どもの産めない女性の夫が、愛人に子どもができた話を書いた。
子どもが生まれました、なんて年賀はがきがきたら嫌がらせだよね。

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