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時雨薫さん

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春秋損得無く

17/04/09 コンテスト(テーマ):第131回 時空モノガタリ文学賞 【 電車 】 コメント:5件 時雨薫 閲覧数:490

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 李月はじいの操縦する汽車に乗ったことがある。六つのときだ。レバーを握るじいの目尻には深い皺が鋭く刻まれていた。ずんぐりした五体にはいきおいが満ちていた。汽車は酷く揺れた。李月のお尻は熱いくらいに痛んだ。炭鉱の景色は色が少なくて退屈なほどだった。橙や緑の汽車が両脇をすり抜けるときにだけほのかに興味を覚えた。ライトが霞をかき分けて進んで行った。

 垂れ幕には赤字に白抜きで「继续煤矿(炭鉱存続)」と書いてある。じいとその友人たちがプラカードを持って閉山派と対峙していた。閉山派から主任が歩み出てじいの眼前に立った。じいはもう鼻息が荒い。李月は両手で顔を覆った。骨の割れる音が高く響いた。

 じいはソファの上に寝かされている。骨と筋肉でできた体のあちこちに青いあざができていて痛々しい。李月はシャツをめくって湿布を張ってやった。
「もうちょっと穏便にできないの、じい」
「無理だ。言ってきく連中だと思うか」
「こんなこと続けてたら閉山する前にじいが倒れちゃうよ」
「俺は倒れない。閉山もしない」
李月は厭きれた。じいがあまりに頑固だからだ。
「石油に代わったっていいじゃない」
「知ってるか、李月。石油ってやつは水道みたいに地下の管で送るんだよ。汽車じゃなくてな」
「知ってるよ。学校で習ったもの」
「気に入らねぇ。俺はお払い箱か」
李月はじいがなぜ現役にこだわるのか分からなかった。じいはもう八十代だ。
「石炭ならいいの。お金にもならないし、危ないよ」
「石炭もだめだ。あれは日本が作ったからな」
李月はじいに気づかれぬよう鼻でため息をついた。こうなるともう、じいは人の話を聞かないのだ。
「石炭も石油もだめなら何ならいいの」
「そうだ、どれもこれも日本が悪いんだ。あいつらさえ来なければ俺はあんなに馬鹿みたいに仕事しなくて済んだし、本を読んでお前みたいに賢くもなれた」
「そんなもしもの話を聞いてるんじゃないよ。石炭も嫌いだって言うなら、嫌いなものに、嫌いなのに、縋って生きるのはおかしいよ。恥ずかしくないの」
じいは起き上がった。唇が震えていた。馬鹿野郎と濃い声で叫んで部屋を出た。

 李月は外で食べるのが好きだ。学校帰りによく買い食いする。店先のベンチに座り大きな一口で肉饅頭にかぶりついた。
「李月ちゃんか」黄心軒が店の奥から声をかけた。じいと同じ存続派だ。
「ごめんなさい、またじいが迷惑かけて」
「あやまることはないよ。僕らも同罪さ」よく見ると左目の下が青く晴れている。
「兄貴は炭鉱一の古株だからね。感情的になるのも無理ない」
黄心軒はじいと正反対の痩身だ。色も白い。李月にはこの老人が炭鉱夫だとはどうしても信じられない。黄心軒が豆菓子を買った。半分を李月の膝に乗せた。
「李月ちゃんは星を見たことがあるかい」
「ありません」
「霞んでるんだろ。僕ら炭鉱夫がそうしたんだ」
汚い空気だというけれど李月には分からない。霞の中で生まれ霞の中で育ったのだ。深海魚は自分が水の中にいることを知っているかしら、と李月は思う。
「昔はもやがかかっていくのをいいことみたいに思ってたんだよ。僕らの作ったもやだ。発展の象徴なんて言ってさ」
「今は違うんですか」
「建前はね。閉山派の連中だってそうさ。それしか知らずに生きて来たんだ。今更、今までのやり方を捨てるなんてできたものじゃないよ」
李月は肉饅頭をもう二つ買った。よく食うね、と黄心軒がからかった。
 じいは停車場に汽車を止めていた。李月は梯子を上って運転席のじいに声をかけた。真っ黒な顔がのっとこっちを向いた。
「肉饅頭買ってきたの。一緒に食べよ」
じいは油まみれの手で肉饅頭を掴み、ほとんど一口で平らげた。自分の食べ方はじいから遺伝したのだなと李月は思う。李月は運転席の外に足を投げ出して少しずつちぎって食べた。じいの仕事ぶりは見飽きない。些細な動作にも大げさなくらい筋肉を使うのが、却って張り詰めた精神の結果のように見える。
「ねぇ、しばらく乗ってていい」
「邪魔するなよ」
 車輪がレールとこすれる音が床から背中へ伝わってくる。金属音が心地よい振動へ変わっていった。李月は最後の一口を名残惜しく食べた。
「石炭の代わりに石油を燃やすようになったら霞が薄くなるだろうって、学校で聞いたよ」
「そうか、それなら」
ライトが霞を深く突き刺している。汽車はもうじき最高速度に達する。風が轟轟と李月の耳をたたいた。
「その前に死ぬよ、俺は」
 李月は汽車が霞を割いて走るように感じた。


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このストーリーに関するコメント

17/04/15 むねすけ

読ませていただきました

息苦しさにむせるような文体の中に、人間の温度と生気を感じました
宮本輝さんを初めて読んだ時のようなある種のショックすら覚えました
上手く言えませんが、凄いなぁと思ってます

17/04/16 時雨薫

コメントありがとうございます。街と人の心とにかかった晴れない霞が電車以上に物語のテーマとなっている作品なのですが、まさか内容からだけでなく文体からもそれを感じていただけたとは。感無量です。物語の流れと登場人物と文体とがすべてリンクして読者に強い印象を残す作品を目指していきたいと思います。

17/05/04 光石七

拝読しました。
日本人とはまた違った人間臭さ、生々しい息遣いを感じました。
石炭産出量が世界一の中国ですが、その歴史や背景、経済の成長と低迷、環境問題などもしっかり作品に入れ込んでおられるのがすごいです。
端的な文体も舞台や登場人物にマッチしていて、完成度の高い作品だと思いました。
素晴らしかったです!

17/05/07 時雨薫

コメントありがとうございます。人生経験のない若輩が人間臭さなんて書いてよいのだろうかと思いつつ執筆したのですがどうも概ね好評のようです。よかった。みんな生に飢えているのでしょうね。現代社会の問題が盛り込まれていることについては、特に意識しているわけでもないですし、きっと癖のようなものなのだと思います。改めて自分の作品を読み返してみて、現代劇には何かしら社会問題が登場することに気づきました。自分の作風に昇華していければなと思います。時雨薫の次回作に乞うご期待!

17/05/08 時雨薫

誤字訂正
×青く晴れている⇒青く腫れている
阿呆よのぉ。

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