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日向 葵さん

「ひなた あおい」と申します。 小説を書きます。 よろしくどうぞ。 twitter@aoi_himata_21

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そのアナウンスは誰が為に

17/04/08 コンテスト(テーマ):第131回 時空モノガタリ文学賞 【 電車 】 コメント:0件 日向 葵 閲覧数:162

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『只今、人身事故の為運転を見合わせております――』
 朝の構内にアナウンスが響いた。雑多に混み合う中、二列に並んでいつ来るかもわからない電車を待つ。背後からは溜息や舌打ちがちらほらと聞こえ、私の前に立つスーツ姿の男は腕時計を睨みながら、綺麗に磨かれた革靴をカツカツと打ち鳴らしている。これでは出社時間に間に合わないだろう。そんなことを考えつつ、僕は千草のことを思い出した。



 千草はいつも最前列で講義を受けていた。よれたワイシャツにジーンズと小汚いスニーカーを着用して、噛り付くように筆を動かしていたのを覚えている。僕はと言えば、講義など最低限しか行かなかったし、中には全く学校に行かない日もあった。そんなことをしていたので、試験の結果がどうなったのかは言うまでもない。僕は二年目の一年生を迎えていた。
 怠惰な悪癖がそう簡単に抜ける筈もなく、僕は再び自堕落な生活を送っていた。ただ、僕の中にも良心の呵責というのが少なからずあった様で、今年こそは進級せねばなるまいという固い決意を試験が目の前に迫った頃に決心するのであった。
 そんな時に目に留まったのが千草である。彼のノートを写すことが出来れば試験も容易いだろう。学内を彷徨っていると食堂に一人で居る彼を見つけることが出来た。千草はいつもと同じ格好で一杯80円の掛け蕎麦を食っていた。
「それ美味いの?」
 話しかける切っ掛けは何でもよかった。ただ、彼が食っていた蕎麦があまりに不味そうだったので単純に気になったのである。
「美味くないよ。ただ安いんだ」
 初めて声を聞いた彼は外見の印象とは全く異なり、何とも普通の人間であった。僕は少し驚いたが、会話するうちに不思議とすぐに馴染んだ。彼はとても真面目な人間で、外見で損をしているタイプだと知った。そして、周りは皆、千草に冷たいのだとも思った。
 試験前日、僕は千草にノートを写させてくれと一万円を握らせて頼み込んだ。僕が千草に近寄った本来の目的はこれである。
「金なんか要らない!写したければ勝手に写せ!」
 そうすると千草は見たこともないくらい激昂して、僕はその姿に慄いた。彼はそんなに気性の荒い人間ではない。短い付き合いだがそれくらいはわかる。僕は只々謝って、千草のノートを写させてもらった。そして以降、僕は千草にノートを写させてもらうのはやめることにした。
 その影響もあってか、僕は真面目に講義に出席するようになった。僕の中にもこんな性根が根付くのだと自分でも驚いた。朱に交われば赤くなるとは正にこのことである。僕が無事に大学を卒業することが出来たのは間違いなく千草のおかげだろう。



 卒業から数年が経った。今では僕も社会の歯車の一つである。千草が卒業してから、僕は彼と連絡は取らなかった。彼のことだから、きっとデスクに張り付いて必死に指を動かしているに違いない。ただ、スーツはヨレヨレではないと良いが。そんなことを考えて携帯に登録された千草のメールアドレスを眺める。久しぶりに会ってみるのも良いかもしれない。僕は千草に連絡を取った。
『今度、飲みに行こう』
 シンプルな文面だが、彼にはこれで十分だろう。
『わかった。大学の最寄りで待ち合わせよう』
 数日後、千草から返信があった。適当に日を決めて、大学の最寄り駅で待ち合わせることにした。



『只今、人身事故の為運転を見合わせております――』
 構内にアナウンスが響いた。これでは待ち合わせには間に合わないだろう。こんな日に限って全くついていない。僕は無性に腹立たしくて思わず舌を打った。
『すまん、少し遅れる』
 千草にメールを送って、電光掲示板を見る。運転再開の目処はたっていないらしい。怒っているのだろうか、千草から返信は来なかった。
 目的地に着いたのは結局1時間も後だった。構内に溢れる人混みに揉まれながら急いで改札を抜けるが、そこに千草の姿はなかった。千草も遅れているのだろうと思って、それから1時間待ってみたものの、やはり千草は現れなかった。業を煮やして帰ってしまったのだろうか。僕はその日、諦めて帰路についた。そして、その日から千草と連絡は取れなくなった。



 後日、電車を待っていると、たまたま大学の同期に出会った。そこまで深い仲ではない。挨拶程度は交わす奴だ。僕はふと思い出して、彼に千草のことを聞いてみた。彼が言うには、千草には両親の残した多額の負債があったらしい。僕はそんなこと一言も聞いたことはなかったし、千草も僕にそんなことは言わなかった。ただ、千草が必死に勉強していた理由も、あの時千草が来なかった理由も何となくわかった。

『只今、人身事故の為運転を見合わせております――』
 今日もどこかで響くそのアナウンスに僕は千草を思い出す。


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