1. トップページ
  2. 通勤電車

比些志さん

ペーソスとおかしみの中にハッとさせられるなにごとかをさり気なく書いていきたいと思います。

性別 男性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

1

通勤電車

17/04/01 コンテスト(テーマ):第131回 時空モノガタリ文学賞 【 電車 】 コメント:0件 比些志 閲覧数:198

この作品を評価する

その日は雨だった。電車はすし詰めの満員。今日が初出勤日。高校生のときから乗りなれた朝の通勤電車だが、真新しいスーツ姿で乗りこむと、心なしか気分も違う。ようやく自分も社会人の端くれに加わることができたというような誇らしさが、気持ちをたかぶらせた。しかし電車が走り始めると、その高ぶりが緊張に変わり、いやがおうにも吊革を握る手が汗ばみ始めた。ーー突然、停止信号で電車が止まった。なんのアナウンスもないまま、沈黙と人いきれに支配された時間が行き過ぎる。初日から遅刻するわけにはいかない。入社祝いに両親からもらった真新しい腕時計をなんども見た。なんだか、お腹が痛くなってきた。……

9月最後の日。この一年間、毎日わたしは、途中のターミナル駅から乗ってくる彼女といっしょに通勤している。毎朝息をするのもはばかられるような車内では互いに話しをすることはめったにない。でも朝の通勤地獄が、確実に最上の幸福な空間と時間に変わった。その日も満員の乗客にふたりとも押しつぶされそうになりながら、さりげなく立ったまま互いの肩を寄せ合っていると、彼女が不安そうにわたしの顔をのぞき込み、目配せをしてくる。その視線の先では、大柄の男がさっきから彼女の腕にひじを押してつけていた。わたしは、柄にもなくすこし大胆にに彼女の肩をひきよせた。わたしの胸に顔をうずめる彼女の黒髪からシャンプーの匂いが立ちこめ、鼻先をくすぐる。彼女は今日が最後の出勤日。明日から、この人が自分の妻になると思うと、胸が自然と熱くなった。

昨日、上司と喧嘩をした。自分が悪いのかーー?いや、オレは悪くない。じゃあ自分はどうすべきだったのか?これからどうすべきなのか?ーー熱帯夜を一睡もすることなく自問自答した。途中のターミナル駅に着いた。冷たい汗が背中に広がる。電車を降りたい。そして乗り換えをして、いっそのこと全くちがう場所に行ってしまいたい、とぼんやり思っていたら、妻と幼い子供の顔が浮かんだ。……

今日は昇進試験の日。電車は師走のあわただしさを乗せていつもの路線を走る。わたしは、吊革につかまったまま、もう一度、この日のために何日もかけてまとめたノートに目を通す。ーー管理職になれるか、万年係長で終わるかが、今日の試験で決まる。たかが雇われサラリーマンの一生だが、この差は、天と地ほどの違いだ。ーーそう思ったら、急にお腹が痛くなった。わたしは途中のターミナル駅で電車を降りて、トイレに駆け込んだ。

今日はわたしの最後の出勤日。車窓から見る風景とも今日でお別れだ。わたしは、いつもの時間のいつもの車両のいつもの吊革につかまった。この三十五年間、変わることのない、わたしのルーティーン。ただ、ちがうのは、わたしの横に、大学生になった娘が立っていること。ーーターミナル駅に到着したときた目の前の席があいた。娘が、お父さん座んなよ、と言ってくれた。この子も来年は社会人、ひとなみの大人になったものだと感慨にふけっていると、背後からふたりの間に割り込んできた鼻息の荒いヨレヨレのスーツ姿の中年のサラリーマンが、ちゃっかりその席に座ってしまった。そのまま腕を組んで眠り込む男の様子を見下ろしながら、わたしは娘と目を合わせて微笑みあった。

今日は、ひさしぶりに電車に乗った。長らく病気でベットに伏せっていたため、外出すること自体、どれぐらいぶりのことだろうか?その日、どうやら世間は休日なのか電車はすいていた。座席もあいていたが、わたしは現役時代の習い性で腰掛けることなく吊革につかまった。なぜか車窓を流れる風景は、電車好きの子供のころに胸をときめかせながら見たような田園風景である。空は黄ばんだ曇が垂れ込めていた。こういうときは夜に決まって雨が降る。折りたたみ傘を忘れたことを後悔しつつ、まわりを見ると、現役時代にいつも同じ車両に乗り合わせた人たちが乗っていた。しかも、その戦友たちはみなわたしに向かってにこやかな笑顔を見せている。しばらくして電車はいつものターミナル駅に止まった。窓の外のプラットホームに、懐かしい父や母や祖父母がいた。電車の中のわたしに向かって立ったまま手を振ってくれている。ーーそうか、そういうことか。もう帰りの傘を心配する必要はないのだ。ーー発車のベルが鳴る。となりに立っている紳士が、降りますか?と慈愛に満ちた表情で聞いたが、わたしは首を振った。やがて電車はふたたび走り出した。目の前に座っていた女子高校生が親しげに、どうぞ、と席をゆずってくれようとしたが、わたしは吊革につかまったままおだやかに断った。「この景色をもうしばらく眺めていたんでね」了


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン
アドセンス