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冬垣ひなたさん

時空モノガタリで活動を始め、お陰さまで3年目に入りました。これからも勉強を重ね、たくさんの作品を書いていけるよう頑張りたいと思います。 写真を撮り、絵も描きます。こちらでupするなかで、特に記載のない画像は冬垣の作品です。 ・ツイッター https://twitter.com/fuyugaki_hinata ・時空モノガタリでもお読みいただける、拙作「渋谷スイングバイ」の動画があります。 内容は同じですが、音声読み上げ朗読、エンディング付きです。 「softalk朗読渋谷スイングバイ」  https://www.youtube.com/watch?v=6nsb8bo8Egs (=は半角に直してください)

性別 女性
将来の夢 いつまでも小説が書けるように、健康でいたいです。
座右の銘 雄弁は銀、沈黙は金

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人道的兵器のあやまち〜フリッツ・ハーバー伝〜

17/03/27 コンテスト(テーマ):第130回 時空モノガタリ文学賞 【 失敗 】 コメント:8件 冬垣ひなた 閲覧数:401

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 ドイツのとある学会でフリッツ・ハーバーが、クララと再会したのは奇跡であった。何せ淡い恋心を抱いたのは青年と少女という時で、「まるで夢の中の童話の王子と王女のようです」とロマンを抱くハーバーは新進気鋭の化学者であり、クララもまた化学者だった。二人は1901年に祝福を受け結婚する。時にハーバー32歳、クララ30歳。ドイツの未来はまだ明るく、前途洋々な道が開けているように見えた。
 これはのちに、親友アインシュタインから「君は傑出した科学的才能を大量殺戮のために使っている」とまで言われ、『化学兵器の父』と呼ばれた男の物語である。


 クララとの生活は始まったものの、ハーバーの昇進は遅々としていた。
「私が、ユダヤ人だからか……」
 学問のためプロテスタントに改宗したといえ、ユダヤ人への差別はドイツ社会の中に強く根付いていて、向学心が上昇すればするほど自分が阻まれていることを、ハーバーは切実に感じ取っていた。
「しかし私はドイツを愛しているのだ」
 彼は勤勉であり、社会に認められたいとより一層研究に没頭した。
 その頃彼が関心を寄せていたのはアンモニアの合成だった。ヨーロッパの人口の増大に伴う食糧危機を回避すべく、人工肥料の開発は人類の課題であったが、そのために必要なアンモニアの合成にハーバーが成功し、工業化が実現したのは1913年の事。
 それに先立つ1912年にはカイザー・ヴィルヘルム研究所の所長に就任し順風満帆に見えたが、長年家族を顧みないハーバーと妻クララとの不和が暗い影を落としていた。
 アンモニア合成の研究は人類の飢餓救済に大きく貢献し、のちに彼はノーベル化学賞を得る事となったが、その人道主義の彼の人生が大きく変わったのは、1914年から始まった第一次世界大戦の事である。
 アンモニア合成法が火薬の開発に軍事転用されたのは、ノーベルの例にも似ているが、ハーバーはここからさらなる過ちに手を染めたのである。
 1899年のハーグ会議で毒ガスの使用は禁止されていたが、ドイツとフランスは双方「敵が先に使った」と譲らず、ハーバーはこう言った。
「戦争をこれによって早く終結させることが出来れば、無数の人命を救うことが出来る」、これらの言葉はのちの戦争でも繰り返し常套句として用いられるが、少なくともハーバー自身はこの言葉を信じ切っていたようだ。
 1915年4月。微風とともに西部戦線の一角に沸いた奇妙な煙により多くの兵が苦しみだし、ハーバーの開発した塩素ガスは、この攻撃だけで連合軍に約5000人の死者を出した。
 彼は国際的に非難を受けたが、5月2日、繊細だったクララは、自らの胸に銃弾を撃ち込み自殺した。毒ガス戦に手を染めた夫へ、化学者としての「抗議」だった。
 ハーバーはそれでも止まらなかった。毒ガス戦は東部戦線へも広まり、各国が毒ガス戦をエスカレートしていく中、ついにハーバーはイペリット……触れただけでケロイドを起こすほど有毒なマスタードガスまで開発した。
 ガスマスクの通用しない毒ガスの登場……戦場からはもはや人道は消え去っていた。
 ドイツは革命で皇帝の退位した1918年、休戦に至った。
 全ては祖国のために……一時は戦犯容疑で死刑を覚悟したハーバーだったが、その年のノーベル賞に選ばれたのは、世界情勢の揺り返しもあったろう。「平和時は人類のために、戦時は祖国のために」は彼の持論であった。毒ガス戦の最中に再婚し残りの人生を国家に捧げる彼は、今度は殺虫剤を開発し、その科学知識を人類に役立てようとした。
 しかし台頭してきたナチスはドイツに新たな狂気をもたらし、「非アーリア人の排除」の風はハーバーの研究所にも及ぶ。祖国はユダヤ人を裏切ったのである。ハーバー自身は対象でなかったが、彼を慕う信頼の置ける多くのユダヤ人研究員たちを解雇する、それは耐えがたかった。
 科学者であることに人種は条件でない……矜持の言葉とともに辞職願を出してドイツを去り、各地を転々としたハーバーは1934年に64歳の生涯を終える。
 離婚していた彼の遺骨は、遺言のとおり、毒ガスに抵抗したクララと共に、今はともに墓地に眠っている。
 ……ハーバーの開発した害虫駆除剤『チクロンB』が、その後アウシュビッツ強制収容所の大量殺戮でナチスに利用されたことを知れば、彼はどう思ったか。
 


 兵器は悪だ。悪を認識する間は自制するが、人間がほんの一匙の偽善を飲み込んだ瞬間、良心は谷底へ転がり落ち、無数の屍を築き上げることをたやすく行う。
 今も争いは絶えることなく、科学はいつも平和と戦争の間を振り子のように揺れていて、どんな善良な人間もそうなり得るのだという事を我々は知らなくてはならない。そして、いまだ続く人類のあやまちがどこかで途切れることを強く願う。


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このストーリーに関するコメント

17/03/28 そらの珊瑚

冬垣ひなたさん、拝読しました。

評伝としても読みごたえがあり、冬垣さんの強い想いが伝わってくるようでした。
私が知らなかった史実を読ませていただき感謝します。
「戦争をこれによって早く終結させることが出来れば、無数の人命を救うことが出来る」
この文言はヒロシマ・ナガサキに落とされた原爆についてもそう云われていました。
歴史から人は学ばなければいけませんね。そうでなければ同じあやまちを繰り返すだけです。
難しいことかもしれませんし、そんな日は来ないかもしれない、けれどいつか地球上から戦争がなくなってほしいと切に願います。

17/03/29 冬垣ひなた

そらの珊瑚さん、コメントありがとうございます。

この話はテーマ「平和」を調べていて知った史実で、同じ第一次世界大戦を扱ったテーマ「クリスマス」の拙作「明日消えるかもしれないこの光を」のその後を、ドイツ視点で書いた形になっています。この戦いでは、まだヒトラーも前線で戦って毒ガスで負傷した一兵士です。歴史とはどこかで繋がっているものですね。
人間は何度も同じあやまちを繰り返していますが、誰しも力を持つと過ちを犯したまま突き進む危険性を持っています。人間は不完全な生き物で、戦争がなくなるのは難しいことかもしれません。それでもなくなってほしいと思う心は大事だし、その気持ちを失くさないように持っていたいと思います。

17/03/29 冬垣ひなた

<フリッツ・ハーバーについて>
・ハーバー(1868〜1934)の有名な研究としてはほかに、戦後の賠償金支払いにあえぐドイツのため、海水から金を回収する計画がありましたが失敗しました(取れたのだが採算の合わない位微量だった)。
・星製薬の星一(SF作家・星新一の父)と交流があり、1924年に世界一周の旅に出た際には、日本にも2か月ほど滞在しました。
・明治七年(1874)に函館で、排外思想の男に斬殺されたドイツの代弁領事ルードヴィッヒは彼の叔父で(ハーバー事件)、訪日の際ハーバーは叔父の没後50年祭にも出席しています。
・クララの自殺の原因は近年異説も出ている。

17/03/29 冬垣ひなた

《参考文献》
・毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者(朝日新聞社 宮田新平・著)
《補足説明》
・右の画像はフリッツ・ハーバー。ウィキメディア・コモンズから著作権の切れたパブリックドメインでお借りしています。
・左の画像はガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵(1917年)。ウィキメディア・コモンズから著作権の切れたパブリックドメインでお借りしています。

17/03/30 泡沫恋歌

冬垣ひなた 様、拝読しました。

いつも冬垣ひなたさんの作品は読むだけで勉強になります。
毒ガスに関する、こういう暗部の歴史は知りませんでした。
「戦争をこれによって早く終結させることが出来れば、無数の人命を救うことが出来る」
この言葉で、今までどれほど多くの命が失われたことでしょう。
そういう殺戮者の詭弁に騙されてはいけない。
だけどそういう歴史はまた繰り返されるのでしょうか。

17/03/30 冬垣ひなた

泡沫恋歌さん、コメントありがとうございます。

時空さんに来て一番身についたのが、見聞きしたことを雑学で終わらせるのでなく、調べて知識として吸収する事でした。そういう部分は泡沫さんやそらのさんの作品に学んだ部分が大きいので、いつも感謝しています。
今回思ったのは、戦争と平和、その両方に名を刻む科学者はたくさんいて、彼らも時代と政治に流された人であり、人道を踏み外す危険は誰しももっているということです。私にはこうして書く事しかできませんが、皆様の考えの足がかりにして頂けたらと思います。

17/04/06 霜月秋介

冬垣ひなた様、拝読しました。

世界平和を願う冬垣さんの想いが伝わってきました。
簡単に人の命を殺めてしまう、化学の力は恐ろしいですね。これからも新たに恐ろしい殺戮兵器が生み出されると思うとゾッとします。

17/04/12 冬垣ひなた

霜月秋介さん、コメントありがとうございます。

平和は戦争抜きにして語れないのが難しいですね。
また世界で悲しい事が起こってしまいましたが、繰り返される歴史を仕方がないと許容することのないよう、改めて自戒したいと思います。

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