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宮下 倖さん

宮下 倖です。 楽しくたくさん書いていきたいです。

性別 女性
将来の夢 誰かの心にひとつでも響く言葉が紡げたら幸せです。
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春の翅

17/03/27 コンテスト(テーマ):第130回 時空モノガタリ文学賞 【 失敗 】 コメント:0件 宮下 倖 閲覧数:107

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 意識して伸ばした背筋がぴりっと痛んだ。静かに息を吐きながら、目の前で肩を落とす夫を見る。開けた出窓から入ってくるあたたかな春風も、この重苦しい空気を入れ替えてはくれなかった。
「どうしても……もうだめか?」
「うん」
 呻くような声を絞り出した夫に短く答えて、私はふと窓のほうを見た。
 一昨年、三回目の結婚記念日に買った細身の白い花瓶に、黄色のガーベラを一本活けてある。花瓶の縁を這う赤い点に気づいて目を凝らすと、てんとう虫がつやつやした背を揺らしていた。
 てんとう虫って飛べるんだっけ? 
 私はそんなことを思いながら、背をまるめて顔を覆う夫にゆっくり視線を戻した。
  

 夫とは会社の同期として出会った。好きな映画の話で意気投合したのがきっかけでよく話すようになりつき合いが始まった。二年の交際を経て結婚。何の障害もなく、ごくごく平凡な新生活のスタートをきった。
 不満らしい不満もないと思っていた私たちの間に綻びが見えたのは、あの花瓶を買った頃だったかもしれない。
 結婚して三年経つのに子どもができないことを、姑に遠回しに責められるようになった。同じ時期に夫の仕事が多忙になり、すれ違いが続いたのも私を精神的に疲弊させた。
 それでも私は、私なりにがんばった。子どもがいなくても、いい嫁だと思われたくて夫の実家にこまめに顔を出し、ひとり暮らしの姑を気遣った。
 けれど、頻繁に姑に会うようになったため、私は余計な話を聞いてしまうことになる。
「ねえちょっと、子どもが産めない嫁じゃ困るのよ。一度検査したほうがいいんじゃない? ほら不妊症の……」
「いや……そんなことしたらあいつが傷つくよ。責任感じると思う」
「じゃあこの家の跡取りは? あたしの孫は?」
「もう少し様子をみようよ」
「……だいたいあんたも忙しい忙しいって、ちゃんと子づくりしてるの?」
「なっ……なに言ってるんだよ」
「もう! あんたがそんなだから! 浮気でもされてるんじゃないの?」
「母さん。それは言いすぎだろ!」

 姑の言葉の悪さは重々承知だった。それほどひどい悪意がないこともわかっている。思ったことを吟味せず口に出してしまうだけだ。
 でも今までは話半分に聞き流せていたことができなくなった。夫婦生活のことにまで口出しをされ、挙句浮気まで疑われるなんてあんまりだ。夫だって一見私を庇っているような発言だけれど、不妊の原因は私にあると決めつけている。悪いのは何もかも私なのだ。
 わざわざ報告したりはしなかったけれど、私は結婚前にブライダルチェックを受けている。妊娠出産に影響するような異常は私の体にはなかった。そうすると不妊の原因は夫にある可能性が高い。
 子どもがすべてではないと思い夫婦ふたりの人生だって悪くないと考えていたのに、夫は私を守ってはくれず、姑は好き勝手なことを言う。
 さすがに心が折れた。何かが音をたてて崩れた。


 私と夫だけのリビング。窓からはやさしい風が吹いてくる。
 見るともなしにまた花瓶を見ると、てんとう虫がまっすぐなガーベラの茎を上へ上へとのぼっていくところだった。てっぺんまで行ったらどうするのだろう。
 夫が唸るような声を発した。なんと言ったのかはわからない。
 私は再三伝えてきたことを、もう一度ゆっくりと口にする。
「私にはあなたの子どもは産めません。あなたとお義母さんの望みを叶えることはできない」
 もう何度も話し合ってきた。私たちの話はほんの少しずれたまま、限りなく平行線だった。
 このままではきっと誰もが不幸になる。

 愛情はまだある。たぶんどこかに。
 でもそれを必死に探すほどの想いがない。もう疲れてしまった。
「ごめんなさい。気もちは変わらない。別れましょう」
「…………わかった」
 何がわかったのだろうとは思う。
 でも口には出さない。不妊の女が身を引いたと思われても、もうさほど心は痛まないのだ。
 目の前のローテーブルに離婚届がある。私の名はすでに書いた。
 何度か深く息を吐き、夫はようやくペンをとって紙の上に屈み込む。そのまるい背中とてんとう虫が重なって私は窓際に視線を走らせた。 
 てんとう虫はガーベラの花びらの先端まで辿りついている。見ているうちに背を開き、うすい翅を震わせて窓の外へ飛び立っていった。 
 そうか、飛べるのか。自分の翅で。
 
 愛情はまだある。たぶんどこかに。
 でも私たちは離婚の道をえらぶ。
 いつか、この結婚が「失敗だった」と思ってしまうその前に。


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